2018年2月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―534『東京銀座・江木写真館』


 杉浦醫院には、診察室を見守るように大きな額に入った健造先生の写真が掲示されています。当時としては大きく引き伸ばされた写真ですが、粒子も粗くなく健造先生のキマッタ顔と背広姿が、この写真撮影にのぞんだ先生の意気込みまで感じさせます。

 

 孫の杉浦純子さんは「祖父と父は性格や趣味が180度違っていましたね。祖父はあの時代に自分の写真を東京銀座の江木写真館まで行って撮ったんです。父はそういったことには全く興味がなく、ピンボケ写真ばっかりで困ったのを覚えてます」と話していました。

 

 確かに健造先生の写真はたくさん残っていて、「甲府・内田写真館」とか撮影した写真館の名前入りのもあります。県の近代人物館はじめ副読本などに使われている健造先生の写真は、全て「東京銀座・江木写真館」で撮影された診察室にある写真です。

江木写真店(明治24年)

 

 この「東京銀座・江木写真館」は、現在もあるのか?

先日、東京から来館されたご年配の方々に伺いました。

「今の静岡新聞社ビルが、昔は江木写真館だったようだね」「塔のある高い建物で、待ち合わせ場所としても有名だったそうだけど今は銀座ではやってないと思うよ」と教えてくれました。

 

  早速、ネットで調べてみると中央区文化財調査指導員の野口孝一氏が「江木塔の写真師たち」と云う文章の中で、江木写真館の創設から往年の写真技師の話まで詳細がありました。

それによると、一万円札の福沢諭吉の肖像写真も江木写真館の成田写真師の撮影だということですから、健造先生が上京してまで撮りたくなったのは江木写真館の写真師の腕や技術の高さを情報としてキャッチしていたからでしょう。

 

 確かに現在のようにカメラが自動的にピントを合わせるオートフォーカス機能等が一般化したのは、昭和も50年代に入って「ミノルタα-7000」の登場以降だったと思いますから、明治・大正・昭和と永く写真は、撮影する写真師の腕による違いが大きかったのでしょう。


 同時に、野口孝一氏の「江木塔の写真師たち」から、明治時代に写真館を始めた江木兄弟の向学心や進取の精神は、奇病解明に取り組んだ健造先生と相通じますから、健造先生はその辺の情報も知っての江木写真館選択だったのかも知れません。

*野口孝一著「江木塔の写真師たち」と写真は中央区ホームページから拝借しました。