2017年11月12日日曜日

杉浦醫院四方山話―524『甲府盆地のお茶』

 舞踊家・田中泯氏は、山梨県の白州(北杜市)から敷島(甲斐市)へ活動本拠地を移しましたが、踊りの身体は農業を通して形成すると云う基本姿勢は一貫しています。

敷島では、舞踊や農業を志す若者たちと「農事組合法人桃花村」を立ち上げ、傾斜地での農作業を続け、主要農産物として「桃花村のお茶」を販売していました。

ダンサーとして国内外での高い評価に加え、俳優としての人気も手伝ったのでしょう「桃花村のお茶」は、10年近くマニアには人気のお茶でしたが、現在は販売されていません。

 

 田中泯さんと「農事組合法人桃花村」は、新たにお茶栽培を始めた訳ではなく、長い間放置され雑草に覆われた茶畑に大きく伸びたお茶の木が残っていたことから、化学肥料を使わずに無農薬のお茶作りに挑戦しようと茶畑再生取り組んだそうです。


 昇仙峡に連なる旧敷島町の北部は標高も1000m以上あり、江戸時代からの棚田をNPO活動で保護して、景観を保全していく取り組みも続いています。

NPO法人 敷島棚田等農耕文化保存協会のサイトから拝借しました。


 ご覧のように小さな田が800枚近く空まで続く様は見事ですが、本来このような傾斜地の水路は流速もあることからミヤイリガイは生息できず、地方病の罹患者もいない地域であることが一般的でした。

 

 しかし、敷島町史にも「この地域にはミヤイリガイが生息し、昭和28年には山梨県衛生民生部長の依頼で、ミヤイリガイ殺貝試験実施地区の指定を受け、米軍第406総合医学研究所と協力して殺貝に努力した」と記されているように地方病罹患者もいた特異なケースの地域でもありました。

 

 それは、棚田に植える苗は、平地の敷島地区で育苗して上にあげていたことから、ミヤイリガイが付着した苗を手植えした中での罹患やミヤイリガイの生息だったそうです。

 

 昭和30年代末から、県はミヤイリガイ撲滅対策の一つで、稲作からの転作を農家に奨励しましたから、現在の「果樹王国・山梨」もこの転作による成果でもあります。

 江戸時代からの御料棚田が1000枚続いていた敷島北部地域でも約200枚の水田が畑に変わりました。標高1000mというこの地域は、 虫も付かず病気にもなりにくい環境を生かして、お茶の栽培を始めました。この地域の畑で出来たナスは、地域の人でも皮をむいて食べたそうですから、冬にはマイナス10度以下にもなる厳しい風土が寒さに耐え、栄養を土から吸い上げた力強いお茶になり、「北山茶」の名称で販売もされていたそうです。

 

 

 甲府盆地に茶畑があり、地茶「北山茶」があったことはあまり知られていませんが、後継者がなくその後荒廃してしまった茶畑を田中泯氏らが再生に取り組み、旧「北山茶」を「桃花村のお茶」として蘇らせたのが約15年前になる訳です。

 

「農事組合法人桃花村」も茶畑から手を引いて数年経ちますから、このままではせっかく蘇った茶畑も又同じ道をたどることにもなりかねません。甲府盆地のお茶「北山茶」が「桃花村のお茶」を経て新たな名称を得て復活されんことを願わずにはいられません。