2017年8月10日木曜日

杉浦醫院四方山話―514『殺貝剤開発と田の草取り』-5

  農民の期待に応える画期的な除草剤PCPは、ミヤイリガイ殺貝剤の開発の中で、水稲への被害調査を担った山梨県農業試験場由井技師らによるあらゆる角度からの調査実験から生まれたものの、特許や販売権などは、その辺の事務にも精通していた大学や製薬会社が取得するところとなりました。


  こうして、1959年(昭和34年)、PCPは普及に移されました。

このPCPが画期的だったのは2・4‐Dと異なり、非選択・接触型除草剤で、すでに成長の進んだ稲には影響しないが、発芽直後の雑草は全て枯らすところにありました。

この特性を活かし、田植え直後の土壌表層にPCPを散布して、発芽してくる雑草を枯らす土壌処理技術が考案され、 最初は水溶剤だったPCPも、やがて土壌処理に適する粒剤が開発されました。    

 

 これにより、日本の稲作史上初めて、手取り除草や除草機なしに除草が可能になり、甲府盆地でも真夏の炎天下での「田の草取り」から解放されました。山梨に限らず当然、農家に歓迎され、1960年代の最盛期には、全国で約200万ヘクタール、全水田の65%でPCPが使われたそうです。  

 

 しかし、昭和37年(1962)の集中豪雨で散布直後のPCP薬剤が有明海や琵琶湖などに流入し、魚介類に深刻な被害を与えました。

三郎先生が目撃した水路での魚への被害が、大雨で土ごとPCPが流出した結果起きたのでした。これを機にPCP使用は規制されるなどかげりが見え始めるとPCPに代わる低毒性除草剤の開発が進みました。     

    

 さらに、すでに使われなくなったPCPが昭和50年代(1980年代)になると、土壌中に残存していて環境汚染の元凶ダイオキシンが含まれていることも判明しました。

  

 当話‐18「現代」でも触れましたが、山梨県と米軍406医学総合研究所の共同研究と住民、行政の一致した取り組みで、地方病を撲滅寸前まで追いつめたという記録映画「人類の名のもとに」を科学映像館での配信映像で観た科学者遠藤浩良先生から、「河川や湖沼、地下水といった環境水の化学物質による汚染は、現代では、世界的な大問題ですから、ペンタクロロフェノールを使った甲府盆地の映像は、今ではとても考えられないことです。殺貝作業に従事した住民には、この薬の中毒で苦しんだ人がいたかも知れませんね」とご教示いただいことを思い出します。


 由井氏はもとより、大学や製薬会社の研究者もPCPの副作用を当時はそこまで予測できなかったのでしょう。これらの教訓を活かして、より安全な除草剤が開発され、現代ではすっかり「環境汚染農薬」と云う汚名のPCPですが、炎天下の草とりから農家を解放しようという由井氏らの誠意と努力は、伝承していくに値するものと思います。 由井重文氏は、山梨県農業試験場長を最後に退職され、昭和62年(1987)に68歳で亡くなっています。