2017年11月12日日曜日

杉浦醫院四方山話―524『甲府盆地のお茶』

 舞踊家・田中泯氏は、山梨県の白州(北杜市)から敷島(甲斐市)へ活動本拠地を移しましたが、踊りの身体は農業を通して形成すると云う基本姿勢は一貫しています。

敷島では、舞踊や農業を志す若者たちと「農事組合法人桃花村」を立ち上げ、傾斜地での農作業を続け、主要農産物として「桃花村のお茶」を販売していました。

ダンサーとして国内外での高い評価に加え、俳優としての人気も手伝ったのでしょう「桃花村のお茶」は、10年近くマニアには人気のお茶でしたが、現在は販売されていません。

 

 田中泯さんと「農事組合法人桃花村」は、新たにお茶栽培を始めた訳ではなく、長い間放置され雑草に覆われた茶畑に大きく伸びたお茶の木が残っていたことから、化学肥料を使わずに無農薬のお茶作りに挑戦しようと茶畑再生取り組んだそうです。


 昇仙峡に連なる旧敷島町の北部は標高も1000m以上あり、江戸時代からの棚田をNPO活動で保護して、景観を保全していく取り組みも続いています。

NPO法人 敷島棚田等農耕文化保存協会のサイトから拝借しました。


 ご覧のように小さな田が800枚近く空まで続く様は見事ですが、本来このような傾斜地の水路は流速もあることからミヤイリガイは生息できず、地方病の罹患者もいない地域であることが一般的でした。

 

 しかし、敷島町史にも「この地域にはミヤイリガイが生息し、昭和28年には山梨県衛生民生部長の依頼で、ミヤイリガイ殺貝試験実施地区の指定を受け、米軍第406総合医学研究所と協力して殺貝に努力した」と記されているように地方病罹患者もいた特異なケースの地域でもありました。

 

 それは、棚田に植える苗は、平地の敷島地区で育苗して上にあげていたことから、ミヤイリガイが付着した苗を手植えした中での罹患やミヤイリガイの生息だったそうです。

 

 昭和30年代末から、県はミヤイリガイ撲滅対策の一つで、稲作からの転作を農家に奨励しましたから、現在の「果樹王国・山梨」もこの転作による成果でもあります。

 江戸時代からの御料棚田が1000枚続いていた敷島北部地域でも約200枚の水田が畑に変わりました。標高1000mというこの地域は、 虫も付かず病気にもなりにくい環境を生かして、お茶の栽培を始めました。この地域の畑で出来たナスは、地域の人でも皮をむいて食べたそうですから、冬にはマイナス10度以下にもなる厳しい風土が寒さに耐え、栄養を土から吸い上げた力強いお茶になり、「北山茶」の名称で販売もされていたそうです。

 

 

 甲府盆地に茶畑があり、地茶「北山茶」があったことはあまり知られていませんが、後継者がなくその後荒廃してしまった茶畑を田中泯氏らが再生に取り組み、旧「北山茶」を「桃花村のお茶」として蘇らせたのが約15年前になる訳です。

 

「農事組合法人桃花村」も茶畑から手を引いて数年経ちますから、このままではせっかく蘇った茶畑も又同じ道をたどることにもなりかねません。甲府盆地のお茶「北山茶」が「桃花村のお茶」を経て新たな名称を得て復活されんことを願わずにはいられません。

2017年11月7日火曜日

杉浦醫院四方山話―523『郷土学習実践研究発表大会』

 当519話「ふるさと山梨・郷土学習コンクール」で紹介した第10回記念大会が、標記のように『郷土学習実践研究発表大会』として、10月31日に県総合教育センターで行われました。

今年応募した小・中学生の研究内容を審査し、大賞や優秀賞などの表彰と研究発表がメインでしたが、第10回と云う節目の大会で「過去の受賞者による発表」も設けられ、大学生や社会人になった受賞者が自分とこのコンクールのかかわりや現在の想いを語りました。


 この発表に招かれたのが、昭和町在住の神宮寺3姉妹ですから、私も彼女たちの発表を楽しみに参加して来ました。

3姉妹が招かれた理由は、中学時代「ふるさと山梨・郷土学習コンクール」に応募して揃って受賞していることに加え、現在も山梨で大学生と社会人になって、ふるさとの若い力となっているからでした。

 

 姉妹は、長女奈美さんが昭和町のホタルの盛衰と地方病についての研究で第2回大会で優秀賞を受賞したのをきっかけに次女美緒さん、3女沙弥さんと研究は受け継がれ、沙弥さんは中学1、2、3年と毎年優秀賞に輝いて来ました。

 

 神宮寺姉妹が継続しているのは研究学習だけでなく、奈美さんが「地方病とホタル」の研究で当館に来て以来、日曜日や夏休みなど時間をとっては当館で庭園清掃や団体案内の手伝いなどボランティア活動を引き継いでいることです。

こういう積極的な姉妹に共通するのは「自分は何をしたいのか」をそれぞれが考え、その道に向かって努力する姿勢です。

 

 奈美さんは東京の大学に進み「数学」を専攻しました。数学教師になりたいと云う高校時代からの夢に向かっての東京行きでした。

数学を専攻する傍ら「教職課程」と「学芸員」の資格単位も取得するなど密度の濃い大学生活を送って故郷に戻り、数学を教えています。


 美緒さんは、都留文科大学で「社会学」を学んでいます。来る度に現在学んでいる「ジェンダー」や「LGBT」についても話してくれますが、話の内容から問題意識を持って勉強していることが伝わります。子どもの頃憧れた「警察官」か「高校の社会の先生」が当面の目標のようですが、そのための実習等も着々とこなしながら、予備校でのアルバイトも忙しそうです。


 沙弥さんは、甲府工業土木科へ進み、職業実習で行った身延の土木会社に入社し、現在はリニア新幹線の工事現場を往復する社会人です。

沙弥さんが中一の時の優秀賞は「リニアについて~未来の乗り物・現実になるまで~」ですから、リニアについての研究学習を通して、自分もその建設にかかわる仕事が世代的にも可能とその道を進んだからこそ、姉二人が「沙弥は毎日が楽しいようで生き生きしてる」と声を揃えるほど充実した生活を送っているのでしょう。


 晴れの舞台で、まとまった発表内容をしっかり語る神宮寺3姉妹を眩しく見上げながら、研究テーマを考えることは自分の生き方を考えることにも繋がることや、掘り下げて学ぶ中で資料館や図書館の利活用も必要になり、そこでの人間関係も構築していくコミュニュケーション力も培ってきたことも分かり、私にはとても貴重ないい時間をプレゼントしていただきました。

2017年10月30日月曜日

杉浦醫院四方山話―522『第6回・杉浦醫院院内コンサート』

 10月22日(日)に予定していました秋の院内コンサートは、台風に伴う大雨の為延期になりましたが、演奏者のご協力で11月19日(日)に延期開催出来ることになりました。

 

 杉浦醫院応接室には、昭和8年の今上天皇生誕を記念して、日本楽器(YAMAHA)が日本で100台限定で受注生産したと云うグランド・ピアノが設置されています。この100台のピアノは、太平洋戦争末期の本土空襲で大部分が焼失し、現在は日本に3台しか残っていないという大変貴重な文化財でもあります。  

 

 山梨県内での購入希望は、3姉妹の為にと三郎先生が1台だけだったことからニュースにもなり、それを知った親友の小野修先生が「お前は娘を歌唄いにする気か」と怒鳴り込んできたそうですから、このピアノには昭和初期の時代背景や硬派な医者の親交などから始まる多くの物語が内包されています。


 昭和10年前後に山梨の片田舎・西条村にもシャンデリアの下で、ピアノのレッスンを受けていた純子さん、郁子さん、三和子さんの3姉妹が居たことも特筆に値しますが、戦後、三郎先生に治療法を学びに来た米軍の軍医が戦時下でも持ち歩いていたという楽譜でこのピアノを弾いては、一緒に歌った思い出など今でも楽しそうに思い出しては語る純子さんです。

 

 東京に嫁いだ郁子さん、三和子さんのお子さんたちも夏休みには「西条」に滞在して、このピアノを毎日弾いていたそうで、「音大に進んだタカちゃんやヒロちゃんは、子どもの時から上手で、まあよく弾いていたよ」とか「患者さんがいっぱいいても診察室の隣で弾いてたから、先生も聴診器なんか聴こえなかったらね」と仕事に来ていた橋戸棟梁も懐かしそうに話してくれます。

 

 三郎先生が名付け親のお隣・正覚寺の敦子さんは、流れてくるピアノの音やメロディーを聴き、西洋音楽とヨーロッパに憧れたことが、現在のウイーンでの生活にも繋がっているそうで、帰国する度に純子さんにベートーベンやモーツアルトのCDセットをお土産に持参下さいます。

 

 このピアノの存在を知った静岡県富士市の調律家・辻村さんと臼間さんは、丸一日かけて永年眠っていたこのピアノを見事に復活させ、以後、遠路にもかかわらずお二人で毎年調律に来ていただいていますから、物語は現在も進行中と云えます。

 

 杉浦醫院「院内コンサート」は、このように歴史と物語に溢れた杉浦家のピアノを価値ある調度品として展示しておくだけでなく、80年以上の時を経ても十分演奏用としても使用可能である実態をコンサートを楽しみながら確認いただこうと4年前から始まりました。


 秋のコンサートは、特に「杉浦醫院のピアノとすごす午後のピアノコンサート」とピアニスト・佐藤恵美さんが命名くださいましたが、杉浦家と親戚にもなる佐藤さんは「このピアノに魅せられました」と初回から演奏いただいております。今回2回目の杉浦誠氏は、声楽家としてもご活躍ですが、現役の外科医でもある杉浦家の親族です。

 お二人は、それぞれ東京、静岡と県外でご活躍中ですが、杉浦醫院のピアノが取り持つ縁で、このコンサートが持続できるのも三郎先生が仕掛けてくれいたようにも感じ、矢張りコンダクターで主人公は、三郎先生という物語を伝承していきたいと思います。

 

 19日に延期開催となりました「杉浦醫院のピアノとすごす午後のピアノコンサート」へ新たに参加ご希望の方は、お早めに当館(275‐1400)までお申し込みください。 

2017年10月15日日曜日

杉浦醫院四方山話―521『NHK News かいドキ』

 山梨県の県内ニュースをテレビでは、NHK・山梨放送・テレビ山梨の3局が夕方6時台にそれぞれ放映していますが、どの局のニュースや情報が県民に一番視聴されているのか?そんな調査データはあるのか?等々は、あまり話題になったことも無いように思いますが、各社は、それぞれに「観てもらう」努力をしていることでしょう。

特段ヒイキにしている局もない私のような人間は、リモコン片手にあちこちツマミ観しても毎日のことですし、狭い県内の限られた情報では、どの局でも同じ話題やニュースが重なりがちで、その辺で、どう特色を出していくのかも大変なことと思います。


 当館の玄関には人感センサーがセットしてありますから、来館者がみえると「ピンポーン」と館内に来館を告げてくれます。先日、センサーを巧みに避けて入ったのでしょうか、お一人で足音も立てず病院棟内をくまなく見学した方がいました。「ピンポーン」とセンサーが反応したのは、帰る際でした。その忍者なような方は、NHK甲府放送局に4月に入社したと云う新人キャスターの林聖海さんでした。

 再度上がってもらい応接室で話を伺うと、NHKの「News かいドキ」内で放送している「ぐるっと やまなし いってみ隊!」と云う、甲府放送局のアナウンサーやキャスターが県内の市町村の話題を取材してリポートする番組で、新人キャスターの林さんが、昭和町を取り上げてみようと、番組制作の下調べに来館したことが分かりました。


 後日、「局に戻ってから杉浦醫院のホームページを見たら、病院棟以外にも見どころがあることが分かりましたから、もう一度取材に伺いたい」と林さんから電話がありました。約10分間の番組だそうですが、韮崎市の出身だという林さんの興味や視点が昭和町のドコに向くのか?杉浦醫院は外せないということか?イオンモールは?・・・真面目に取材を重ね、台本にして収録すると云うパターンは各局同じでしょうが、今回は、林聖海さんと云う個人の視点で「いってみ隊昭和町」を仕上げる訳ですから、林さんには意気込みと共にプレッシャーもあったことでしょう。


 担当者がカメラを担ぎ、質問しながら撮影するフジテレビやCATVの収録と違い、NHKは本局でも甲府局でもカメラマンと音声担当者が企画者の意を介して撮影し、時にはそれぞれの意見も出して、企画者とチーム力で収録するのがNHK方式のようです。収録時の林さんは、自分で書き上げた台本をチェックしつつも大先輩のカメラマンさん達のアドバイスも受けながら一生懸命でした。

 若い町・昭和を紹介するのには、新人の初々しさと若い感性に溢れた林さんは適任のように思いました。どんな10分番組に仕上がるのか?来週25日(水)午後6時10分から放映予定のNHK「News かいドキ」楽しみです。 

2017年10月3日火曜日

杉浦醫院四方山話―520『草一本生やさない・・・』

 杉浦純子さんと同級生で、地方病で杉浦醫院にも通ったという塚原省三さんは、永く杉浦健造・三郎父子の語り部としてもご尽力いただいて来ました。「実際この病院に通われた方を紹介して欲しい」と云うNHKの要請で、塚原さん宅に伺いました。


 90歳を過ぎた塚原さんは「足が弱って、田んぼの水見も自転車で行くようになったからもう、俺なんかダメさよー」と謙遜しましたが、きれいに手入れされた庭を指さして「ほれでも屋敷には草一本生やさんように今も頑張ってるさ」と、昔から屋敷には草一本生やさなかったと云う誇りを持続していることを知りました。

杉浦醫院に隣接する若尾巌さん宅も塚原さん同様いつも草一本生えていないきれいな庭ですから、ちょっとおおげさに言うとこの地の方々に共通する美学かと思います。それは、屋敷に限らず田畑も同様ですから「篤農家」と云われる所以でもあるのでしょう。


 現在ほど除草剤が一般化する以前は、篤農家の方々は冬の寒い時に田畑の土を耕し、土を冷気に当てることで、春から夏の草対策をしていたという話を聞きましたが、そうだからこそ草一本にも目が向き、その都度抜いて「草一本生やさない」庭や田畑が当たり前になっているのでしょう。


  一方、昭和天皇だったと思いますが「雑草という植物はない」と言った言葉に代表される自然のままの庭を良しとして敢えて雑草を処理しない美学(?)もあります。同様に自然農法と云われる農業を実践している方は、いわゆる雑草は抜かずに刈って有機肥料となるよう田畑にそのまま寝かせているそうです。当然、除草剤や化学肥料は使わないでしょうから、都会の消費者には「安全安心の野菜・果物」として人気もあるようです。

 

 まあ、現代では有害食品としてやり玉に挙がっている合成着色料まみれの食べ物を駄菓子屋でおいしく食べて育った私には、その辺の価値観はピンときませんが、広い当館の庭園に生える夏草に対処しきれず除草剤を撒くと確かに枯れた後の茶色の光景は、雑草の緑の方がまだマシだったなと後悔しますから、自然農法の方が・・・とすぐ素直にブレます。


 塚原さんや若尾さんの庭や田畑が茶色の光景になっているのを一時でも見たことがありませんから、「草一本生やさない」庭の極意を伝授していただきに再度伺おうと思います。

2017年9月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―519『ふるさと山梨・郷土学習コンクール』

 夏休みも終わり、学校生活に戻った子ども達には、二学期のメイン行事「運動会」の練習なども始まっているのでしょう。

 夏休みとは云え、子ども達には様々な宿題が課せられているのも山梨の学校の特徴でしょう。以前にも「夏休みの友」について触れましたが、各種団体からも学校を通して児童・生徒の作文や習字、絵画等々の募集や自由研究などその多くが宿題として課されているのが実態かと思います。


 その中の一つに山梨県教育委員会が募集する「ふるさと山梨・郷土学習コンクール」があります。今年で10回目の区切りの募集が9月上旬に締め切られたようです。


 県教委は、「ふるさと山梨」郷土学習 とは?で、≪山梨県のすべての児童生徒が、郷土への関心を深め、郷土を愛し、郷土に誇りをもてるような心情を豊かに育むための郷土学習を推進する取り組みです。≫と、その目的を公にしています。コンクールですから、毎年それぞれの部門での表彰もあり、選ばれた作品は、県立博物館で展示発表もされているようです。


  また≪多くの小・中学生が,夏休みを利用して,県内の博物館や郷土資料館等を積極的に利用して研究・調査・体験活動を行うことを奨励する。≫と云う一文もありますから、当館にも何人かの小中学生が見学に来て、鋭い質問から「コンクールに応募するので名前を教えてください」まで、応募しようという来館者は意欲的で、こういう機会のあることの必要性も感じました。


  

 「ふるさと山梨・郷土学習コンクール」は、「郷土を愛し、郷土に誇りをもてるような心情を豊かに育むための郷土学習を推進する」と云う目的をコンクール形式にすることで、研究意欲や応募意欲を喚起しようという県教委のねらいは分かります。その為には、取り上げた課題の研究や調査に県立博物館はじめ関係する資料館に出向き、対応した職員の氏名まで記すよう募集要項で指導しているのでしょう。

 これは、自由研究と云う研究行為に「郷土を愛す」と云う道徳的な精神論とコンクールと云う競争原理を持ち込むことで存在感と達成感を得ようと云う意図も見て取れ、気がかりです。


 それは、加熱する合唱コンクールをテレビ中継で見ると、普段から「腹筋力」だの「腹式呼吸」だのと云った体力トレーニングを「独自指導として」どこでもやっているようですし、「合唱はチームワークだ」と精神論を説いてコンクールの上位入賞を横並びで目標にしているのが分かります。

それは、結果発表前後に大写しになる各校の「お祈りポーズ」や「喜びスタイル」まで横並びで、音楽の一分野である合唱だけを全国で予選会までして大々的に行う裏には、高校野球同様、競争原理と精神論で「さわやか」とか「涙」とか「感動」を演出しやすくしているのでしょう。いわゆる一般の児童・生徒とは無縁な特殊集団での盛り上がりには、違和感を禁じえません。

 

 まあ、「ふるさと山梨・郷土学習コンクール」には、合唱コンクールのようなスポンサーもありませんから、カラ騒ぎの授賞式とは無縁でしょう。10月31日(火)に御坂の教育センターで、記念すべき10回目の表彰式があります。外野から上記のような戯言を発した以上、表彰式でこのコンクールの実態をしかと見届け、続けて感想等紹介したいと思います。

2017年9月7日木曜日

杉浦醫院四方山話―518『甲州弁?』

 これも甲州弁の一つなのか定かではありませんが、私の同級生や年配者には、「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になってしまう方がいます。

 

 先日も病院の待合で同級生にばったり会い「どこが悪いの?」と聞くと「でん部」と笑いながら云うので、尻の病気なら痔だと思いましたが、病名は最大の個人情報ですから詮索はそこまでにしました。が、私と同じく友人の心臓外科医を頼りに来たわけですから、「何だM先生は痔も診るのか?」と聞くと「俺はもう体でんぶが悪くてな」で、「でん部」は「全部」だと分かりました。


 役場の以前の上司は、部下を呼び捨てで呼ぶのが常でしたが、「○○しょうぞう」さんを「○○しょうどう」と呼んでいたので、私もいつの間にか上司に真似て彼のことを「しょうどうさん」呼ぶようになってしまいました。

 

 町内の婦人団体が主催した講演会で、司会の女性が最後に「ここで、講師の先生に花束どうていをお願いします」と、「贈呈」が「童貞」になった時には驚きました。


 業者からの納入伝票に「ぞう巾」が「どう巾」と記されていたのを見たこともありますから、当の本人は「ざ」は「だ」「ぜ」は「で」「ぞ」は「ど」で何ら問題は無いのでしょう。このような体験は私に限らず、山梨では多くの方に共通した経験かと思います。


 まあ、例えば「ざんねん」は「だんねん」になる訳ですが、確かに「残念」は「断念」の一里塚でもありますし、「雑巾」も「動巾」で用途的には合ってますから、漢字に変えると哲学的面白みもありますね。

「冷蔵庫」も「霊堂庫」と書けますから、谷川俊太郎センセイ風に詩的発想で「だしきにどうど。だぶとんもどうど」とか「アクセルでんかいでギョーダを食べに行かだあ」「もう不動産は不増産ざね」等々、言葉遊びとしても楽しめます。

                                                              「ざ・ぜ・ぞ」と「だ・で・ど」を矯正するポイントは「舌の使い方」だと何かで読んだ記憶もありますから、これは甲州弁ではなく全国共通なのかもしれませんが、個人的な経験では、都会ではあまり聞いたことがなく、山梨でも若い人の会話では無いようにも思いますが、そんなに若い人と話している訳でもないので確かなことは言えません。

2017年9月4日月曜日

杉浦醫院四方山話―517『秋の教室・イベントご案内』

 昭和4年以前の建物で構成されている当館は、当時のままを観ていただく実物がウリですから、現代建築のように全館冷暖房完備という訳にいきません。真冬と真夏は、来館者に申し訳ない寒さや暑さの時もありますが、それも実体験のうちとご理解をお願いしてきました。


 そんな訳で、当館で開催する教室やイベントは、夏と冬を避け春と秋に集中します。庭園の桜の葉も色付きハラハラと舞い落ち始め、暑さも一段落ついた感もありますので、今秋、当館で開催予定の教室やイベントをまとめてお知らせします。


9月26日(火)から「古典話芸(落語)を愉しむ全4回」が始まります。詳細は「広報昭和」9月号、お申し込み・お問い合わせは当館(275‐1400)にどうぞ。

第1回・9月26日(火) 第2回・10月18日(水) 第3回・11月9日(木) 第4回・12月1日(金)  参加者募集中です!


10月14日(土)「ふるさと再発見ツアー」  

詳細は「広報昭和」9月号または甲府地区広域行政事務組合(228-7641)にお願いします。 参加者募集中です!


10月22日(日)「第6回・杉浦醫院院内コンサート」

 詳細は、「広報昭和」10月号をご覧ください。出演者の詳細をどうぞ。10月1日から申し込みを受け付けます。


10月25日(水)から「ハコテキスタイル教室」が始まります。

第1回・10月25日(水) 第2回・10月29日(日) 第3回・11月6日(月)詳細は、「広報昭和」10月号をご覧ください。10月1日から申し込みを受け付けます。

 

⑤10月28日(土) 「お茶と落語の会」  左記をクリックすると昨年の様子が分かります。詳細は、当館にお問い合わせください。 10月1日から申し込みを受け付けます。


11月26日(日)「杉浦醫院もみじ伝承の会」 左記をクリックすると様子が分かります。参加申し込みは必要ありませんが、出店を希望される場合は、当館にお問い合わせください。


尚、上記⑥以外の館内での教室等は、限られたスペースでの開催ですから人数的制約が避けられませんので、「広報昭和」での周知後からの受付になります。

2017年8月27日日曜日

杉浦醫院四方山話―516 『アジアの国々』

 麻布大学と科学技術振興機構が主催する研究交流事業「さくらサイエンスプラン」は、麻布大学でアジア各国の獣医師と獣医学研究者が研修を積む事業ですが、見学研修会も組み込まれていて、昨年に続き今年も杉浦醫院が見学場所として選定され、過日大型バスで来館されました。


 来日3日目に見学研修を実施するのは、今月いっぱい続く研修会をよりスムーズに進める為、アジア15か国から1人ないし2人の参加者同士が忍野八海で富士山や湧水をバックに互いに写真を撮りあったり、当館で日本の終息史を学んでディスカッションすることを通して、参加者同士のコミュニケーションづくりを進めようという目的のようでした。


 麻布大学の黄教授は、通訳も兼ねた主宰者ですが、日本住血吸虫症の研究者としても著名です。3日目と云うことですが、黄教授は30名以上の参加者の顔と国籍を全て把握していて、一人ひとりを手短に紹介くださいました。その折、国名を聞いて地図上の位置があやふやな国が数か国あり、恥ずかしながら「アジア」について調べる必要に迫られました。


 アジアは、一般的にはヨーロッパを除いたユーラシア大陸を指すようですが、言語や宗教など文化的違いのみならず、国境から人種まで政治的・経済的な立場の違いにより、様々に定義されているのが実態のようです。ですから、アジアの国々は26か国と分類されていたかと思うと国連では47か国と、倍近い開きがあります。

これは、地球上をアジア・北米・中南米・ヨーロッパ・オセアニア・中東・アフリカと7区分するか、中東を「西アジア」として、6区に分けるかの違いによるものでしょう。

また、サッカーのFIFAワールドカップでは、オセアニアの代表的な国であるオーストラリアは、アジア予選会に出ていますから、オーストラリアもアジアだと思っても不思議ではありませんね。

ことほど左様に地域や国の分類は、時代や政治でも変わり、世界的な団体の都合や恣意にもよりますから、あまり意味はないように思いますが、初志貫徹で、ここでは、国連の分類に従って「アジアの国々」について整理してみようと思います。


 私たちに一番身近なアジアは、極東とも呼ばれる「東アジア」で、地理的には日本列島、中国大陸、朝鮮半島、モンゴル高原、台湾島などにある国々です。この東アジアの国でも例えば、中国と呼んでいる中華人民共和国の香港、マカオ、台湾をそれぞれでカウントするのか否かで国数は違ってきます。


 次に身近なのがインドシナ半島、マレー半島、フィリピン諸島が地理範囲の「東南アジア」でしょうか?この中には東ティモールと云う国もありますが、私には地図上の位置が分かりませんでした。この東アジアと東南アジアの国々に日本住血吸虫症の患者が多く、先進地である日本の取り組みを「さくらサイエンスプラン」で学ぶため、参加者はそれぞれの国の国費で派遣された方々だということでした。


 

 ユーラシア大陸の北の部分はロシアですから、国際連合による区分ではロシアは「北アジア」に属しています。モンゴルもこの北アジアに分類されています。


 東・北があれば当然西・南もあり「西アジア」は、日本では中東とも呼ばれ、サウジアラビヤやクエートなど石油産油国の国々です。石油利権をめぐって、バルカン半島の国々と共に「世界の火薬庫」とも呼ばれた地域ですが、アフリカやヨーロッパに組み込まれる国もあり線引きの難しい国々でもあります。


 「南アジア」の地理範囲はインド大陸を中心に隣接するセイロン島はじめ多くの諸島で構成され、インドやパキスタンからイランイスラム共和国やブータンまで大小、個性的な国々があります。

 

 ソ連崩壊後、カザフスタンやタジキスタン、ウズベキスタンなど「○○スタン」と云った国名の独立国が多い地域を「中央アジア」と分類しています。シルクロード一帯ですから、中国に組み込まれた「新疆ウイグル自治区」も中央アジア地域です。中国は、東アジアから中央アジア、北アジアに及ぶ広大な国であることが、アメリカに勝るとも劣らない世界の大国に成長している源であることを実感します。


 中国に限らず、現在、東アジアの朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の動向から目が離せないような報道が溢れていますが、西アジアのシリアやレバノン、パレスチナ等々から南アジアのイランやパキスタンなど目が離せない国が多いのもアジアの国々の現在ですから、ある意味世界で一番ホットな地域がアジアと云うことでしょう。ホットなアジア15か国から暑い夏の日本で集中研修に励む参加者の皆さんの熱い眼差しは、私たち日本人が忘れかけている情熱=パッションと云った内からの力みたいなモノに溢れ、その大切さを教えてくれました。

2017年8月21日月曜日

杉浦醫院四方山話―515 NHKeテレ『よろしく!ファンファン』 

 8月18日にNHK教育テレビで放映された「よろしく!ファンファン」のDVDを担当されたSさんが送付くださいましたので、早速拝見しました。

 Sさんによると今回は「地域の困難に立ち向かった人々」をテーマに甲府盆地で400年以上に渡って地域の人を苦しめた「日本住血吸虫症」(地方病)を取り上げ、その治療や撲滅活動に尽力した杉浦健造・三郎医師の取り組みから、先人たちの思いや努力、そしてそれが今の生活にどう息づいているかを子どもたちに伝えたいという制作意図でした。

 

   この番組は、小学校4年生向けの社会科の番組だということで、Sさんは6月末から何度も来館して取材を重ね、その上でカメラマンと音声担当者と共に7月に3日間甲府に滞在して収録し、編集して、18日の放映と云うスケジュールの中で仕上げた10分間の番組でした。

 

 Sさんのアイデアなのでしょう、日本の調査に3人の宇宙人が多機能ロボット「ファンファン」と共にやって来て、日本人と仲良くなるために日本人の暮らしや考え方を知る計画を立て、今回は「地域の困難に立ち向かった人」ということで、日本住血吸虫症と杉浦父子や地域住民の取り組みを3人が知りたいことを「よろしく!ファンファン」とロボットに依頼して、ファンファンがフットワーク良く調査して報告するという展開でした。私から見ると有能なロボット・ファンファンは、Sさんその者でした。

 

 宇宙人の3人もそれぞれが「時間」「空間(地形)」「人」という3つの視点から知りたいことをファンファンに依頼するという設定ですから、子ども達にも視点を持って考えたり調べることの大切さを知ってほしいという「教育的指導」も組み込まれていて「なるほど」と唸ってしまいました。

 

 また、10分間の番組とはいえ、NHKが収蔵している貴重な映像が要所要所に入り、私たちも初めて観る映像もありましたから、小中学生に限らず当館で是非ご覧いただきたいと思います。

 

 この「よろしく!ファンファン」は、来年春から小学校4年生にシリーズで放送していくことを想定した実験番組だということで、その開発番組を任されたSさんにはさぞプレッシャーもあったことと思いますが、私に欠落している若さと緻密さと丁寧さをバランスよく持ち合わせたSさんには、ある意味楽しい制作だったのかもしれません。

 

 昨日来館した小学生、中学生にも「新着の特別番組をどうぞ」と勧めると、保護者も含め大変好評でしたから、当館の映像資料に新たな一枚が加わり、見学者にも選択肢の幅も広がりました。この場をお借りして、S様はじめNHK教育テレビのスタッフの皆様に御礼申し上げます。

2017年8月10日木曜日

杉浦醫院四方山話―514『殺貝剤開発と田の草取り』-5

  農民の期待に応える画期的な除草剤PCPは、ミヤイリガイ殺貝剤の開発の中で、水稲への被害調査を担った山梨県農業試験場由井技師らによるあらゆる角度からの調査実験から生まれたものの、特許や販売権などは、その辺の事務にも精通していた大学や製薬会社が取得するところとなりました。


  こうして、1959年(昭和34年)、PCPは普及に移されました。

このPCPが画期的だったのは2・4‐Dと異なり、非選択・接触型除草剤で、すでに成長の進んだ稲には影響しないが、発芽直後の雑草は全て枯らすところにありました。

この特性を活かし、田植え直後の土壌表層にPCPを散布して、発芽してくる雑草を枯らす土壌処理技術が考案され、 最初は水溶剤だったPCPも、やがて土壌処理に適する粒剤が開発されました。    

 

 これにより、日本の稲作史上初めて、手取り除草や除草機なしに除草が可能になり、甲府盆地でも真夏の炎天下での「田の草取り」から解放されました。山梨に限らず当然、農家に歓迎され、1960年代の最盛期には、全国で約200万ヘクタール、全水田の65%でPCPが使われたそうです。  

 

 しかし、昭和37年(1962)の集中豪雨で散布直後のPCP薬剤が有明海や琵琶湖などに流入し、魚介類に深刻な被害を与えました。

三郎先生が目撃した水路での魚への被害が、大雨で土ごとPCPが流出した結果起きたのでした。これを機にPCP使用は規制されるなどかげりが見え始めるとPCPに代わる低毒性除草剤の開発が進みました。     

    

 さらに、すでに使われなくなったPCPが昭和50年代(1980年代)になると、土壌中に残存していて環境汚染の元凶ダイオキシンが含まれていることも判明しました。

  

 当話‐18「現代」でも触れましたが、山梨県と米軍406医学総合研究所の共同研究と住民、行政の一致した取り組みで、地方病を撲滅寸前まで追いつめたという記録映画「人類の名のもとに」を科学映像館での配信映像で観た科学者遠藤浩良先生から、「河川や湖沼、地下水といった環境水の化学物質による汚染は、現代では、世界的な大問題ですから、ペンタクロロフェノールを使った甲府盆地の映像は、今ではとても考えられないことです。殺貝作業に従事した住民には、この薬の中毒で苦しんだ人がいたかも知れませんね」とご教示いただいことを思い出します。


 由井氏はもとより、大学や製薬会社の研究者もPCPの副作用を当時はそこまで予測できなかったのでしょう。これらの教訓を活かして、より安全な除草剤が開発され、現代ではすっかり「環境汚染農薬」と云う汚名のPCPですが、炎天下の草とりから農家を解放しようという由井氏らの誠意と努力は、伝承していくに値するものと思います。 由井重文氏は、山梨県農業試験場長を最後に退職され、昭和62年(1987)に68歳で亡くなっています。 

2017年8月8日火曜日

杉浦醫院四方山話―513『殺貝剤開発と田の草取り』-4

 これまで観てきたように日本の除草剤の歴史は昭和23年(1948年)、アメリカから導入された2・4‐Dに始まりましたが、農民はこの薬剤の効果に期待したもののノビエや浮き草には効果がなく、引き続き炎天下の田の草取りは欠かせない作業でした。     

 

 太平洋戦争当時、アメリカ軍の保健衛生体制は、知識でも予算でも世界最先端のものであり、事前の感染症対策も万全を期していたアメリカにとって、日本軍とのレイテ戦での勝利による滞在で、日本住血吸虫症に多くの米軍人が感染したことは、予期せぬ不覚となりました。

その辺の詳細は、小林照幸著 「死の貝」(文藝春秋刊)に譲るとして、このフィリピンでの苦い経験からGHQは甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、三郎先生を頼りに地方病の調査研究を始めました。GHQ406総合医学研究所は、甲府駅に市民から『寄生虫列車』と呼ばれた3両編成の研究施設で、さまざまな薬品テストを行いました。

 

 米軍が持ち込んだ多くの薬剤の中からサントブライトがミヤイリガイ殺貝に有効かつ安価であったことから、同一成分で日本国内で精製可能な、殺傷効果の高い殺貝剤としてペンタクロロフェノールナトリウム=略称PCP-Naの開発に成功しました。

 

 三郎先生は、この新たな殺貝剤PCP-Naの水稲への薬害調査を由井重文氏に依頼したのでした。由井氏ら山梨農事試験場では、想定される様々な水稲被害を調査していく中で、図らずもPCP-Naが画期的な除草剤発見の糸口になりました。

それは、PCP-Naをまいた田では浮き草が枯れ、ノビエなど1年生雑草の発生も抑えられることが判明したのです。 昭和29年(1954)、由井氏はこの観察結果を公表しました。由井氏ら山梨農事試験場での発見は、たちまち大学や製薬会社の研究者の注目を集め、この後は農林省や大学が中核になり、全国的な研究に発展していきました。

こうして、「炎天下の田の草とりから解放される除草剤が欲しい」と云う農民の要望に応え、最初に世に出た除草剤が、PCP(ペンタクロロフェノール)でした。みつけたのは山梨県農業試験場由井重文技師らであり、そのきっかけとなったのが三郎先生からの依頼電話でした。

 

 宇野善康著「イノベーションの開発・普及過程」によりますと、この山梨でのGHQ406総合医学研究所と県立医学研究所の地方病対策としての殺貝剤開発と山梨農事試験場との連携による成果も「水田除草剤PCP」の特許は、宇都宮大学の竹松哲夫氏によってなされたため由井重文氏らは、竹松氏への特許に異議申し立てを行ったものの「ある権力」の介入もあって製薬業界での抗争にまで発展したそうです。

 

その辺について、由井氏は次のように述懐しています。

「1957年におけるPCPの田植え前処理試験や1958年の試験によって明らかとなり、山梨農試としては自信を得たのであるが、ここで一つの問題が残された。というのは、専門外のこととなると、一生懸命研究して立派な成果が得られても、第三者の目が違い、信用度というか評価が低いのが世の通念であって筆者の場合もそうであった」(由井重文:除草剤PCP開発の想い出) と。  

2017年8月6日日曜日

杉浦醫院四方山話―512『殺貝剤開発と田の草取り』-3

 田植えが終わり一息つくと田の草取りが稲刈りまで続きますが、草の成長は真夏がピークになりますから、炎天下の草取りも避けてはとおれません。

この時代に最も普及していた除草剤は、「2・4‐D」というホルモン系の選択的除草剤でした。

 

 これは、水稲には無害で雑草のみを選択的に枯らすという除草剤でしたが、真夏に伸びるノビエ、浮き草、アオミドロには全く効きませんでした。さらに2・4‐Dは、寒冷地では水稲に薬害が生ずることから新しい除草剤の出現が望まれていました。

 

 2・4‐Dの後、新除草剤として「MCP」が出現しました。これは、2・4‐Dの弱点を克服する改良的な除草剤で、高温多湿でなければ効力がなかった2・4‐Dでしたが、低温で日照が少ない年や場所でもMCPは効きました。何よりも散布の分量が多少多すぎても薬害が出ないことなどの改良はされましたが、真夏のノビエ、浮き草、アオミドロに対しては2・4‐D同様で、画期的な除草剤とは言えませんでした。

 

 元来熱帯性の水稲は30°C~32°Cの地温が必要なのに浮き草、アオミドロが繁茂すると根には日光が照射されなくなり、水温を低下させますから、稲作には冷害と同じ凶作をもたらします。炎天下でも田に入り田の草取りを余儀なくされる理由がそこにありました。

 

その辺について由井技師は次のように述べています。

「山梨県の標高850m付近の水田地帯では、農林17号、陸羽132号の品種を栽培しているが、7月中旬には、毎年浮き草の発生が多過ぎて、竹製の網で手掬いして防除している現状さえ認められる。浮遊中の浮き草を完全に掬い取ることが、如何に困難であるかは、その情景が目の当たりに浮かんでくる。かかる地帯の稲作にとっては、1°Cとは言わず、たとえ、0,5°Cでも高ければ高いだけ、生育量が上がる地帯だけに、浮き草防除こそ、水温上昇の良い方法と云えよう。」

 

 ですから、更なる改良で、真夏のノビエ、浮き草、アオミドロに効力のある除草剤の出現は、稲作が柱であった農民から切望され、山梨農事試験場でも石灰を使った浮き草防除試験が行われるなど全国的に「真夏の田の草取り」から農民を解放し、同時に生育量の増産を図る取り組みが始まりました。

2017年8月3日木曜日

杉浦醫院四方山話―511『殺貝剤開発と田の草取り』-2

 日本住血吸虫の生活環が解明されると、ミヤイリガイ殺貝がこの病気の終息に欠かせない課題となりました。宇野善康著「イノベーションの開発・普及過程」によりますと、ミヤイリガイの強力殺貝剤の開発は、戦後進駐した「GHQ403医学総合研究所」に負うところとなりました。


 小泉義孝医学博士は、ミヤイリガイの殺貝方法は(1)生物学的方法(2)物理的方法(3)化学的方法の三種類に分類されるとしています。

(1)の生物学方法は、杉浦健造先生が実践した方法で、ミヤイリガイの天敵であるホタルの幼虫やアヒル、ウサギ、ザリガニなどを増やすことでミヤイリガイを捕食させる方法です。

(2)の物理的方法は、山梨県が土地供給公社を設立して、ミヤイリガイの生息地である「どぶった」と呼ばれた湿地帯の田んぼや沼を掘り起こしミヤイリガイを土中深く埋めてしまう土埋法が代表的ですが、火炎放射器による焼却法も物理的方法と云えましょう。

(3)の化学的方法が薬剤による殺貝方法になります。日本では、生石灰の散布から始まり石灰窒素へと発展しましたが、更なる開発がGHQ403医学総合研究所を中心に行われ、実用化したのがPCP-Naによるものです。

 

 化学的方法で薬剤を開発していくには、ミヤイリガイの正確な生態が前提になりますが、昭和5年までミヤイリガイの繁殖は、胎生なのか卵生なのかも不明でした。卵生であることを発見したのが杉浦三郎先生で、昭和8年には英文論文として世界にも発信されました。

 

 それらを踏まえたGHQ403医学総合研究所のマクマレン、ライト、オリバーの各氏は、昭和20年8月15日敗戦の僅か12日後の8月27日には杉浦醫院に三郎先生を尋ねています。オリバー氏はその後4か月間杉浦家に滞在して、三郎先生の指導のもとGHQ403医学総合研究所が行う日本住血吸虫と殺貝剤の研究方針の立案に努めたそうです。

 

 その結果、前話で触れたとおり、アメリカから持ち込んだ約6000種の化合物の中からミヤイリガイ殺貝に有効な2種類、「サントブライト」と「DN-1」を特定しました。

当時「サントブライト」が1kg500円であったのに対して、「DN-1」は2000円であったため、山梨県内ではミヤイリガイ殺貝剤としてサントブライドが推薦されることになり、それに先立って三郎先生から山梨農事試験場の由井重文技師への水稲への薬害試験の依頼となりました。

2017年7月23日日曜日

杉浦醫院四方山話―510『殺貝剤開発と田の草取り』-1

 梅雨明けと共に今年は空梅雨で、早くも山梨県内の農作物に影響が出だしたとの報道もありますが、いよいよ本格的な夏の到来です。

甲府盆地の夏は「炎天下」と云う言葉がピッタリの暑さが有名です。

現代ではエアコンの普及も進みそれなりの対暑策も講じられますが、日本住血吸虫症終息に向けて殺貝活動全盛期の昭和30年代までは、この炎天下の農作業である「田の草取り」が、甲府盆地の農民を苦しめていた過酷な労働でした。


 殺貝活動の中で開発された化学薬品が思わぬ副産物を生んで、甲府盆地の農民を「田の草取り」から救ったという地方病にまつわる明るい話が、宇野善康著「イノベーションの開発・普及過程」と云う本に記されていましたので、要約しながら報告します。


 宇野氏によりますと、その中心になったのが杉浦三郎氏と県農業試験場の由井重文技師でした。当時三郎先生は山梨県医学研究所の地方病部長もしていましたから、新たに開発されたサンブライトおよびDN-1の薬液が田んぼに侵入して水稲に薬害が出ることを案じ、三郎先生から山梨農事試験場の作物科科長であった由井重文氏に電話で薬害試験を依頼したのが始まりでした。

宇野氏はこの電話を「これは、殺貝剤が水田除草剤へと転換するきっかけを作った重要なコミニュケーションであった」と指摘しています。


 中間宿主ミヤイリガイの殺貝剤としては、長い間消石灰や石灰窒素が使われてきました。戦後GHQが甲府駅に停車させこの病気を研究した「寄生虫列車」では、強力な殺貝剤の開発も行われました。約6000種の化合物の中からミヤイリガイ殺貝に有効な2種類、「サンブライト」と「DN-1」を特定したそうです。

 

 この新開発の薬剤を実験指導者・杉浦三郎氏のもとで、1953年(昭和28年)5月15日に実験調査が行われました。散布する土地の土質条件の違いも考慮して県内4か所を選定してのフィールドワークでした。


 その結果、「サンブライト」と「DN-1」は、ともに90パーセント以上の殺貝効果が認められ、ミヤイリガイに有効な薬剤であることが証明されました。それを受け、三郎先生が由井技官に「ミヤイリガイ殺貝には有効だけど、これを水路などに散布することによって、水稲を枯らす心配はないかどうかを試験して欲しい」と云う依頼になったそうです。

 

 それは、この薬剤の散布で魚害ともいうべき魚の大量死を目の当たりにした三郎先生ですから、農民の命でもある米に被害が及ばないことの確証がなければ散布できないとの思いからだのでしょう。

2017年7月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―509『湯村温泉・昇仙閣・常盤ホテル』

  「甲府の奥座敷」とも呼ばれた湯村温泉は、湯村山のふもとにあり、歴史的には弘法大師の杖により湧出した温泉だとか、葛飾北斎から太宰治まで文化人が愛した温泉地とか言われてきました。また、真偽はわかりませんが「武田節」も湯村温泉が発祥の地との記載もあります。

 現在の湯村温泉では、老舗「常盤ホテル」に対し新興「甲府富士屋ホテル」といった図式も感じますが、甲府富士屋ホテルは本当に「新興」なのか?ひょんなことから調べてみることになりました。


 甲府富士屋ホテルのサイトを見ると結婚式等の会場も大小幾つかあるようですが、メイン会場は≪披露パーティ/SHOUSENKAKU【昇仙閣】≫と、懐かしい「昇仙閣」の名前が出てきます。

 山梨県内の「歴史資料」をネットで公開している「峡陽文庫」は、その質の高さと詳細さに加え貴重な画像資料が豊富で、当サイトへの転載使用も許可いただいて来ました。甲府富士屋ホテルの歴史もこの「峡陽文庫」に上記画像と共に下記の簡潔な記述がありました。


『昇仙峡ホテルは昭和12年に甲府市郊外(当時は西山梨郡大宮村:昭和17年4月1日に甲府市に合併)の湯村温泉に開業し、同17年には名称を『昇仙閣』と改めている。
 その後、昭和37年10月5日には国際興業株式会社により買収され、新館の建設など拡張・整備されながら営業されてきたが、昭和63年に営業を終了し同年2月5日に昇仙閣跡に新たなホテルの建設が着工され、平成元年10月17日に『甲府富士屋ホテル』がオープンし現在に至っている』


 上記から、現在の甲府富士屋ホテルは、山梨の名勝地「昇仙峡」の入り口のホテルとして、昭和12年に「昇仙峡ホテル」の名称でオープンし、5年後に「昇仙閣」と改め昭和37年まで常盤ホテルと並ぶ湯村温泉の代表的ホテルだったことが分かります。そういう意味では、甲府富士屋ホテルも湯村温泉の老舗ホテルであることが、敢えて「昇仙閣」の名前をホール名に残していることでもうかがえます。

敗戦前の昇仙閣には、東京目黒にある鷹番小学校の学童が集団疎開していたそうですから、昇仙峡は秘境として人気があった時代、旧西山梨郡大宮村の湯村温泉も現在とは違った山村だったのでしょう。


 以前、古老から「昔の馬返し場所だった所が、今の常盤ホテルだ」と云った話を聞きました。

甲府市中心街(柳町周辺)から甲府駅や石和、富士川舟運の鰍沢等を馬車が結んでいた山梨馬車鉄道が後に山梨軽便鉄道となったそうですが、その資料には甲府中心街と湯村温泉を結ぶルートの記載はありませんでした。しかし、現在の常盤ホテルは、湯村温泉郷の入り口に位置していますし、甲府の奥座敷に定期馬車が人を運ぶ実需もあったでしょうから、古老の話には信憑性もあります。

この山梨馬車鉄道や山梨軽便鉄道は、山梨県の民間公共交通の元祖でしょうから、詳細を調べていきたいと思います。

2017年6月12日月曜日

杉浦醫院四方山話―508『第5回 杉浦醫院・院内コンサート』

 今週の日曜日18日(日)に標記の院内コンサートを開催します。

これまでも開催後に報告を兼ね院内コンサートの紹介をしてきましたが、今回は開催前に演奏者の紹介をしておきたいと思います。

 

 杉浦醫院・院内コンサートは、医院棟応接室に昭和9年から設置され、三郎先生のお子さんである3姉妹が使っていた杉浦家のピアノを価値ある調度品として展示しておくだけでなく、80年以上の時を経ても十分演奏用としても使用可能である実態をコンサートを楽しみながら確認いただこうというのが始まりでした。

 現在、日本に三台しか残っていないという今上天皇の生誕を記念して、日本楽器(YAMAHA)が日本で百台限定で受注生産したと云うピアノが、この地に現存していることも昭和町の誇りですが、文化風土の継承として、このピアノをメインにしたコンサートを企画していくことは、文化財の活用という観点からも意味があります。


 今回のコンサートは、ピアノとフルートの共演で、ピアノは昨年に続き広瀬史佳さんです。


広瀬さんは、甲府市生まれで桐朋学園大学音楽学部演奏学科を卒業後も研鑽を重ね、山梨芸術祭賞はじめ大阪国際音楽コンクールやソレイユ新人オーデション等々で優秀賞等多数受賞し、現在は山梨大学非常勤講師として後進の指導にもあったています。


 

このコンサートの為にお二人は3回のリハーサルを当館に出向いて行います。音楽ホールのように計算された音響設備はありませんから、ピアノとフルートの音量のバランスやフルート奏者の立ち位置などを調整し、このピアノ独特の音色をどうフルートの音と調和させるかに余念がありません。演奏者にとっては、ホールとは違う院内コンサートならではのご苦労もありそうです。


今回、室内楽では人気のピアノとフルートのデュオを広瀬さんが組んでくださいましたが、フルートは、同じく甲府市生まれの横内絢さんです。

 

横内さんは、武蔵野音楽大学卒業後、ハンガリー国立交響楽団首席奏者バーリトン・ヤーノシュ氏のもとで研鑽を積み、東京、神奈川を中心にオーケストラからオペラ、室内楽、ソロまで幅広い演奏活動で著名です。

「パール・フルート東京ギャリ―」においてフルートの指導も行うご多忙の中、故郷山梨での演奏も多く、昭和町でも2回目となります。


 当日は、プログラムもお渡ししますが、お二人による楽曲や楽器の紹介など狭い空間ならではのアットホームなコンサートをお楽しみください。尚、定員まで残すところ若干名となりましたので、お申し込みはお急ぎください。

2017年5月31日水曜日

杉浦醫院四方山話―507『山梨の同人誌「中央線」雑感』

 木喰上人と微笑仏の自称「在野研究者」であった故・丸山太一氏の蔵書が当館に寄贈され、その中には山梨の同人雑誌「中央線」のバックナンバーもあることは499話で紹介しました。

そんなことから、現編集長の蔦木雅清氏が来館くださったり、この度は同人のIさんが、バックナンバーで欠けていた十数冊の中央線を持参下さいました。この場で恐縮ですが御礼申し上げます。


 山梨県には「中央線」と云う文芸誌が、古くから有ることは知っていましたが、どのような方々のどんな内容の雑誌なのかは丸山さんからご寄贈いただくまで知りませんでした。

雑誌の巻末には、同人や誌友になっているメンバーの氏名・住所・電話番号が名簿として付いていますから、じっくり確かめてみました。


 毎号作品を寄せている方と名簿に名前はあるけど作品には、お目にかかれない方に大きく二分される感じで、こういう方々が定期読者として発刊を支えているのだろうと推測しました。

 

 同人・誌友名簿約70名の中に高校時代の同級生1名、同級生の父親2名、社会教育に携わった中での知り合い4名、山日新聞文芸欄や単行本等の作品を通して名前を知っている方4名の計11名の方々を認識することが出来、あらためて山梨県という風土ーたとえば人間関係の密度ーなどについて考えさせられました。


 さっそく、同級生K君の作品が掲載されている号を探し拝読しました。「恥ずかしの青春期」と題した小品でしたが、一気に読ませる楽しい内容で、時代と場所の違いこそあれ北杜夫の「ドクトルまんぼう青春記」を彷彿させる池袋要町の木賃下宿屋での学生生活と階下に住む大家さん家族との現在に至る交友記で、「文は人なり」を表象しているK君ならではの作品でした。

 

 直ぐ名簿にある電話番号に電話して、K君と「中央線」の由来を尋ねました。「韮崎高校の校長になって、韮崎市の山寺仁太郎さんが大学の先輩だから挨拶に行ったら、山寺さんが編集長と発行人になっているということで誘われたのが始まりでね」と教えてくれました。大村智氏も山寺氏と旧知であったことから、大村哲史のペンネームで「中央線」に寄稿して、山寺氏亡き後の中央線の代表も引き受けられているそうですから、山寺仁太郎と云う個に連なる方々も多いのでしょう。これを一般的には人脈などとも形容しますが、この手の同人誌は人脈を生かして云々とは別世界ですから、山寺氏の個人的魅力が成せる同人と云う一面がうかがえます。同時に同人誌は離合集散が常ですから、中央線の継続発行の歴史には、山寺氏のようなキーパーソンとなる個人の存在が多きかったことを物語っています。

2017年5月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―506『地方病認知度調査』

 昨年、一般社団法人「比較統合医療学会」が、山梨県民を対象に行った日本住血吸虫症についての認知度調査の結果が、過日の山日新聞で報じられました。


 この調査によりますと南アルプス市の中学生で、地方病と呼ばれた日本住血吸虫症について「知っている」と回答した中学生は、何と1パーセントだったそうです。


 その報を受けて、山日新聞の論説委員が一面下段のコラム「風林火山」で、この実態についての感想を記していました。

2年生の地域探検に続き、今日は西条小学校の4年生が「総合の学習」で地方病を学習に来館しました。


 この一連の報道に接し、あらためて「山梨県の郷土史」についての問題を提起せざるをえません。

 

 明治14年から平成8年まで、1世紀以上に及んだ地方病との闘いの歴史は、山梨県の近現代史で最大かつ貴重な歴史物語を内包しているにもかかわらず、山梨県内の社会教育や生涯学習機関では、郷土史と云えば相変わらず「武田信玄」関係が八割以上を占めているのが実態です。

昨年、県外の放送局が「何だこれ!ミステリー」と、地方病と終息に至る過程をミステリーな病と歴史として全国放映しました。この番組を観て、来館された方の多くは県外からの方々でしたから、奇病とされていた時代「死に至る病」だった歴史が、「地方病は山梨の恥部」と云った固定観念となり県民にも定着しているのが原因なのでしょうか?


 物事や歴史には必ず二面性があるのは常識ですが、「死に至る病」と云う側面だけでなく、行政のみならず住民も一体になって「協働」で終息させた山梨の地方病終息史にもっともっと光をあてるべき時代ではないでしょうか?

どこの自治体でも「協働のまちづくり」をキャッチ・フレーズに掲げているのが現代です。行政が音頭を取らなくても住民が区長を代表に「御指揮願い」を県令に訴えて始まった地方病対策は、終始「協働」の「まちづくり」の歴史でもあります。その側面から、それぞれの市町村の取り組みを掘り起こし、現代に繋げていくのが真っ当な郷土史の学習ではないでしょうか?


 山梨近代人物館では、地方病の先駆者として当館の杉浦健造氏が唯一取り上げられています。県内初の人体解剖を申し出て、新たな虫卵の発見に結びついた明治時代の杉山なか女や虫体を発見した三神三朗氏。治療と予防に生涯をささげた杉浦三郎氏から林正高氏まで日本の医学史上も欠かせない多くの先駆者がこの病と格闘してきました。

また、県内保健所の検便師から薬袋氏始めとする県衛生公害研究所の方々の奮闘など決して杉浦健造氏ひとりが武田信玄よろしく引っ張った歴史でないことに地方病の歴史伝承の価値もあるように思います。


 「もはや、地方病は終わった」として、昭和40年代後半には、山梨の学校教育からも地方病は消えました。現在の父親・母親の世代も学校では地方病を学んでいませんから、上記の認知度も「さもありなん」と云う数字です。新聞記事には、当館の存在が昭和町の中学生の認知度には反映されている旨の指摘もありましたが、県内の資料館としては、最後発の当館が地方病伝承を掲げた唯一の資料館です。「その存在意義を発揮して、山梨の地方病の歴史を地道に伝承していこう」と励みにもなった認知度調査の結果でもありました。

2017年5月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―505『衛生車 TROY - スミ331』-3

 「衛生車」と云う名称は、タンクを備えたバキュームカーを連想するのが一般的ですが、GHQが接収して改造した客車を「衛生車 TROY - スミ331」と「研究車」ではなく敢えて「衛生車」と命名したのには何か理由があったのでしょうか?

 広島の被爆調査目的に造られた衛生車であったことは、前話で触れましたが、何故?甲府駅に常駐して地方病についての調査研究に向けられたのかもミステリーです。

  その辺を調べていくと「406総合医学研究所」の光だけでなく影について、あるいはGHQを実質支配した米軍と占領下の日本に行きつきます。

 

 記録によると1947年5月21日に米軍の命令で、東大の伝染病研究所の半分を厚生省に移管して、厚生省所管国立「予防衛生研究所」=「予研」が設置されました。その予研には、戦争中731細菌戦部隊に協力した日本人医学者が、戦犯の免責と引き換えに多数集められ、米軍の406部隊の下請け研究機関としての役割を担い、米軍が大規模な細菌戦を展開した1950年からの朝鮮戦争や1960年からのベトナム戦争へと繋がりました。特にベトナム戦争では、猛毒ダイオキシンを含む枯れ葉剤の大量散布など近代化学兵器が使われ、その被害は二世や三世にまで数百万人にのぼると云われています。

 

 このように米軍の406部隊は、日本の旧731部隊同様アメリカの細菌戦部隊で、アジアでの生物戦争部隊として細菌学から寄生虫学、病理学、血清学、化学などの専門部門に米軍将校の教授9人、助教授2人、技術研究者25人に加え、上記の予研に集められた日本人研究者100人以上で構成されていたそうです。

 

 この米軍の細菌戦部隊406部隊が「406総合医学研究所」になりましたから、日本に設立させた予研を監督し、生物・化学戦の為の研究が主眼であったことからすると寄生虫学の研究班が広島の被爆調査目的に造られた車両「スミ331」を使って、日本住血吸虫症の研究に甲府に来たのも必然だったことが分かります。

 

 後に、アメリカの科学史専門家も、当時の予研は「熱心な占領軍機関で植民地科学の典型だった」と評しましたが、このような米軍との人的協力関係は、公的には1980年代まで続き、今もってその影響下にあると指摘されることもあります。

 

 406総合医学研究所は、甲府駅構内の研究施設でミヤイリガイ殺貝剤の開発研究や患者の検便なども行い、住民からは「寄生虫列車」と呼ばれ、山梨県民にも親しまれたと云う光の部分は、映画「人類の名のもとに」でも明るく紹介されています。この日米共同研究はその後9年間続き、主に殺貝に使用するための薬品テストを行ったと云われています。米軍が持ち込んださまざまな薬品の中から有機塩素化合物のサントブライトに有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製することが可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、ペンタクロロフェノールナトリウム(略称Na-PCP)の開発に成功し、山梨県内のミヤイリガイ殺貝に威力を発揮しました。

 

 しかし、406総合医学研究所と山梨県が共同制作した幻の映画「人類の名のもとに」を当館と科学映像館が協働して発掘し、科学映像館のサイトで放映されると現代の科学者から「河川や湖沼、地下水といった環境水の化学物質による汚染は、現代では、世界的な大問題ですから、ペンタクロロフェノールを使った甲府盆地の映像は、今ではとても考えられないことです。殺貝作業に従事した住民には、この薬の中毒で苦しんだ人がいたかも知れませんね」と、ご教示をいただきました。

 

 朝鮮戦争での細菌兵器やベトナム戦争での枯れ葉剤が、この延長線上でないこと願うばかりですが、「日本の黒い霧」の松本清張亡き後ですから、「地方病終息」の名のもとに有病地帯での新化学兵器開発やその人体への影響実験であったのか否かは、深い深い霧の中としか言えません。

2017年5月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―504『衛生車 TROY - スミ331』-2

  GHQ専用車両は、国鉄の優良車両を接収した当時の日本では最新鋭の客車だったことは、前話のとおりですが、GHQはその客車を目的に応じて改造を命じたそうです。

「衛生車 TROY - スミ331」は、医療検査と研究が目的でしたから、長野工機部が1946年(昭和21年)に車種スハ32642を改造して製作したものです。

 下の写真のように客車であった車種スハ32642の座席はすべて撤去され、両サイドの窓際に並行して机や消毒器、その上には収納棚などが設置され、客車の面影はありません。

「放射能影響研究所所蔵写真」から
 

 甲府駅に置かれた「寄生虫列車」と呼ばれたGHQ専用車両は、「寝台車」「食堂車」「研究車」の3両編成だったと聞いておりましたが、正確には4両編成だった可能性もあることが分かりました。


 早坂元興氏が「鉄道ジャーナル」に2回に分けて連載した記事によると≪スミ331は付随車とペアを組んで運用されていた≫そうです。

ペアの付随車には、発電機や空気圧縮機、ボイラーなどが設置されていて、屋根には水タンク2基があり、スミ331の研究車両に電気や水を供給していました。更に、ジープ一台も積載されていたそうですから現地視察用のジープの運搬車も兼ねていたのでしょう。

 

 1945年8月15日の敗戦のわずか12日後には、GHQ406医薬補給部の軍医が杉浦醫院にジープで乗り付け、三郎先生に日本住血吸虫症の治療方法の伝授を依頼に来ていますが、この付随車が完成したのは1946年8月31日だそうですから、GHQ406医薬補給部のあった神奈川県相模原市からジープを運転しての来訪だったことも分かります。その後もジープに乗ったアメリカ人が杉浦醫院によく来ていたそうですから、甲府駅の付随車に積載されていたジープが機動力を発揮していたのでしょう。


 この付随車両は、「ホミ801」と呼ばれ、改造前の車種は「ワキ700」と云う海軍専用車両だったことから、もともと窓のない車両を生かして改造されたようです。車両の長さも他の車両より短く窓もなかったことから、スミ331と一体で合わせて一両とカウントされていたのかもしれません。

また、スミ331とホミ801のペア車両改造製作の目的は、地方病の研究にではなく、米軍が広島に投下した原子爆弾の被爆調査だったというのが真相のようですが、どのような経緯で甲府駅に常駐して、地方病の調査・研究に使われたのか?その辺の詳細を伝える資料には未だ行きつきません。

2017年4月30日日曜日

杉浦醫院四方山話―503『衛生車 TROY - スミ331』-1

 先に何度かご紹介した敗戦後、甲府駅に停車していた「寄生虫列車」について、機関車名など正確な情報が分かりましたので、お知らせしようと調べていくと「車両」にまつわる歴史や背景など複雑多岐にわたり、とても生半可な学習では要約できないことが分かりました。

 まあ「分からないことが分かれば上等」と云った慰めもありますから、一つずつ整理できたことから順次お知らせしていくことで、最終的に全容がお伝えできれば・・・と思い直し書き始めてみます。

 

 下の写真が、「寄生虫列車」と呼ばれた「衛生車 TROY - スミ331」 の全景で、「奥野利夫氏撮影客車写真1」から拝借したものです。

 
 

 先ずこの段階で「奥野利夫」氏の客車写真の枚数と分類に驚かされてしまい、奥野利夫氏について知ろうとネット頼りに検索していくと奥野氏に続く鉄道写真家の地道な撮影と記録に唸ってしまいました。

参考までにその一つにリンクを貼っておきます。

 このように、「奥野利夫」氏を通して分かったことの一つは、いわゆる「鉄ちゃん」と呼ばれる鉄道愛好家は、大きく「撮り鉄」と「乗り鉄」に分類されいるということでした。「撮り鉄」も「乗り鉄」も読んで字のごとくですが、鉄道関係の写真を撮影する「撮り鉄」でも列車や電車の車両を追う者と駅や鉄道グッズを追う者など更に分化しているようです。

 

 要は奥野利夫氏は、「撮り鉄」の元祖的な存在がだったのだな・・ということも見えてきました。氏が撮影し残した多くの写真を後年まとめたのが「奥野利夫氏撮影客車写真1」であり「同2」へと続いているのでしょう。

 更に奥野氏の写真の撮影年月日は「1950年(昭和25年)」前後が中心ですから、敗戦国日本に進駐した連合国総司令部(GHQ)が日本の鉄道をGHQの管理下においた時代です。

ですから、当時の列車の写真集は、日本の鉄道史上大変まれな(超レアな)写真と云うことにもなります。

 

 それは、GHQの輸送司令部は日本の国有鉄道(国鉄)に対し、保有する優良客車を接収し、用途に応じた改造を命じ、それらを専用列車として独自のダイヤで運転するよう要求したそうです。この連合軍に接収・改造された客車群を撮ったのが奥野利夫氏だった訳で、氏の写真を元にした記録誌や書籍も入手困難な貴重品になっているようです。

 

 1950年(昭和25年)前後は、敗戦にともなう旅行自粛も解除され、鉄道需要も急増し出した中、優良客車は接収されましたから、戦争中の酷使により疲弊していた客車ばかりの当時の国鉄の車両は、悲惨な状態だったそうです。これに対し、GHQ専用客車は、色も茶色に塗り替えられ、横には白線が一本通り、当初は白線上に「U.S ARMY」もプリントされたそうですが、連合軍にはイギリス軍も入っていましたからクレームが付き消されたそうです。

このように「衛生車 TROY - スミ331」始めとするGHQ専用客車は完全整備され、敗戦国の日本人には近寄ることもできない豪華客車として羨望と畏怖の対象だったことも分かりました。

 

 この調子だと『衛生車 TROY - スミ331』は、いつまで続くのか?ですが、70年以上前、占領下の日本や山梨の当時について「GHQ専用客車」を柱に振り返ってみるのもあながち無駄なことでもないように思いますので、お付き合い下さい。

2017年4月11日火曜日

杉浦醫院四方山話―502『春の庭園で春の鐘』

 この季節、テレビも新聞も「桜」の話題ばかりで、花見に行かないのは日本人じゃないみたいな感じですが、桜も酒も冒涜しているような花見と称した宴会も含め、果たしてどれほどの人が桜を愛でに花見に行っているのか?その辺の正確な統計も報じて欲しいと思う今日この頃です。

まあ、桜の名所に足を運ばなくても日本には至る所に桜はありますから、身近な桜を手軽に観賞するのも興あることと思います。そんな意味では、 杉浦醫院庭園も春真っ盛りですから「お見逃しなく」とご案内いたします。先ずは、庭園に咲く花木の写真を5枚貼りますので、クリックしてご覧ください。

  

 「ポツンと一本咲いている山桜を一人で観るのが好きだ」と書いていた立原正秋の代表作に「春の鐘」があります。散りゆく桜を彷彿させる滅びゆく日本の美しい情景の中に男と女の移ろいやすい愛を重ね、大人の愛の宿命を描いた作品です。

 立原亡き後、「南極物語」の蔵原惟繕監督が映画化しました。舞台は原作どおり古都・奈良で、男と女のどろどろした愛の営みを、古都の美しく静かな世界の中で対比的に描くことで、無常観を一層漂よわせた名画だと個人的には思っています。


 題名も「春の」ですから、自然に平家物語の「祇園精舎のの声 諸行無常の響きあり」が連想され、二重三重にも計算された作品のように思いますが、春=桜花=無常だからこそ「バカ騒ぎの花見」に酔いたくなるのでしょうか。

また、桜は新たな門出を祝う花でもあるようですが、それも含めて諸行無常観が募るのは、矢張り寄る年波のせいでしょう。


「ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり」「ゆくかわのながれはたえずして しかももとのみずにあらず」「ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり」「ゆくかわのながれはたえずして しかももとのみずにあらず」 しつこいのも歳のせいです。

2017年3月25日土曜日

杉浦醫院四方山話―501『春を呼ぶ・ホタルの放流』

 山梨の「春を呼ぶ」行事では、南アルプス市で2月初旬に開催される「売っていないものは猫のたまごと馬の角」とも云われている「十日市」が有名ですが、その後大雪が降ったりで、春を呼びきれないこともありますね。

昭和町の「春を呼ぶ」は、この30年、この時期に行われてきた「ホタルの放流」でしょう。杉浦医院庭園では梅が咲き、桜の蕾も膨らみかけていますから、正真正銘、春を呼んでの放流です。


 今年は、20日と22日の両日にホタルの放流会を行いました。

20日は、当館と協働で源氏ホタル復活活動に取り組んでいるNPO法人「楽空(らく)」の放流会でした。毎年、新たな試みでホタルの増殖を図ってきましたが、今年は4月から楽空のメンバーは、休み返上で日曜日にホタル小屋を建設してきました。この小屋は、来年の幼虫を確保する為に種ホタルを採集して産卵させる施設でもあります。

 

 もう一つの目的は、5月下旬に開催される「ホタル観賞会」や「ホタル夜会」に多くのホタルが飛び交うのを観て欲しいという願いからです。楽空でホタル部長をしている古屋さんは、5月中旬から杉浦醫院の池を夜回りして、ホタルの発生数を確認してきましたが、前夜2,30匹確認しても直ぐ4,5匹に減少してしまうことに悔しい思いをしてきました。

夜回りの中で、虫かごと補虫網を持参してくる親子を何組か見かけていたこともあり、この時期、池のホタル採集を楽しみにしている家族の存在に、これでは、肝心の観賞会に寂しい数のホタルしか舞わないので、採集不可能な池以外の発生施設が必要と、「ホタル小屋」建設に踏み出しました。

10か月間飼育してきた水槽に何匹の幼虫が育っているか?メンバーは一匹一匹数えながら幼虫を取り出し、放流しました。1水槽に180匹を確認し、カウント漏れを20匹とし、3水槽分600匹をホタル小屋と池に2分して放流しました。

 22日は、昭和町源氏ホタル愛護会のホタル放流式が当館の庭園池でありました。愛護会メンバー始め、来賓と昭和保育園園児の手から、当館旧車庫の源氏館で、飼育してきた幼虫3水槽分が放流されました。ホタルの幼虫は自然界では、魚やザリガニの絶好の餌でもありますから、石や砂利と区別が使いないように丸まって身を守りますが、水だけになると伸び伸びと歩き回ります。

コップの中の幼虫を見た子どもたちは「これがホタル?」とか「気持ち悪いね」とそれぞれが感想を口にしていましたが、浅川愛護会長から「皆さんが放した幼虫が5月の終わりには元気なホタルになって舞うように気持ちを込めて放流してください」と呼びかけられると「はーい」と答えて池に向かいました。


 20日に放流した楽空分と合わせ約1000匹以上の幼虫が放流されたことになります。池とホタル小屋にほぼ同数の幼虫ですから、5月末の成虫発生数に差異が出るのかも楽しみです。

要は、試行錯誤を重ねて、最終的には庭園の池にホタルが自然発生するのが皆の願いですから、今後も愛護会と楽空の二団体が、お互い協力しあって目的が達成されるよう当館も図っていこうと思います。

先ず、ホタルの幼虫を初めて見た昭和保育園年長組さん28名が放流しました。
 

2017年3月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―500『500話雑感又はチェ・ゲバラ』

 先月の山日新聞で、当四方山話が「間もなく500話」と、私の顔写真入りで紹介され、「源氏蛍」と云う源氏名で書いてきたブログですが、顔と名前が割れてしまいました。

チェ・ゲバラの教えに「革命家の条件は名前と顔が割れていないこと」がありますが、革命家に限らず市井を大過なく生きようと思っている凡人にも共通する名言だと「座右の銘」のようにしてきました。

まあ、60歳の定年までは、おおむねゲバラの教えに従ってきたように思うのですが、この仕事に就いてから露出度が多くなり、悩ましいところでもあります。


 杉浦醫院は、県内でも最後発の郷土資料館ですから、先ず、当館そのものの存在を知っていただく周知活動は、率先してやらなければなりません。ホームページもその一環ですから、観ていただく為には、「更新」が欠かせません。ホームページ更新の為のブログ導入もゲバラの「戦術」に学んだつもりです。

 

 また、新聞やテレビなどマスコミは、ホームページ以上の広報効果がありますから、取材には全て応じ、杉浦醫院の周知と来館につながるよう図ってきました。これもゲバラの教え「単発より繰り返し」に従い、その為に展示内容の更新やイベントの開催など取材価値と意欲を喚起するよう取り組み、いつの間にかカメラにも慣れ、カメラ写りまで意識する「堕落」ぶりです。「人間堕ちるのは速い」と言いますが「堕ちるとこまで堕ちれば這い上がるしかない」も真理でしょうから、自分のことはさておき、新たな戦術を編み出すまでは、当ブログも継続しかありません。

 

 振り返って、500話まで継続できたのは、来館者から「ブログを読んで来ました」とか「ブログで新たな資料が入ったようなので取材に行きます」と云った反応が少なからずあることです。

 

 もう6年以上前の4話「寄生虫列車」を読んで、東京から来館いただいた自称「鉄道オタク」さんは、ブログに記載してあった出典本を確認に来たと云う予想もしない目的での来館でした。

その数日後、鉄ちゃんから寄生虫列車の写真や詳細を伝える古い「鉄道ジャーナル」誌の存在を突き止めた旨の連絡をいただきました。それは、「GHQの落とし子 衛生車スミ331≪TORY≫の足跡を追って」と題する早坂元興氏の記事でした。この詳細については追って紹介しますが、寄生虫列車の内部写真もあり、そこには三郎先生も写っていますから、当館にとっても貴重な資料となりました。この場をお借りして、八王子の鉄ちゃん様に御礼申し上げます。


 前々話で『丸山蔵書・地平文庫誕生!』  をお知らせしましたが、さっそく山日新聞と朝日新聞から取材がありました。両記者は、プリントアウトした四方山話を持参してみえましたから、話もスムーズに進みましたが、質問に答えながら「そうか、その視点が必要だったな」と、ブログを書いていく上での基本についても教えられてきたのが取材でもあります。何よりも「次のブログでは何を紹介しようか」 という意識でいると、うっかり見過ごしてしまいそうなことにも眼が行ったり、きちんと調べたりする習慣が少しは身に付いたように思います。そう、ゲバラの「ある日の真実が、永遠の真実ではない」の意味も少し理解できるようになった感じもしますから、何のことはない「僕自身のためのブログ」というのが客観的なところでしょうか。  

 

 先日、ヴァンフォーレが大敗を喫した浦和レッズの応援には、チェ・ゲバラの肖像を掲げた旗が目立ちます。ゲバラは、その思想と行動力に加えカリスマ的な顔立ちも魅力ですが「不屈の精神の持ち主」であったことが人を惹きつけ、サポーターには、最後まで闘えと云う応援メッセージになるのでしょう。

J1で云えば、チェ・ゲバラは、浦和より甲府に必要かつ似合う存在だと思うのですが、やはりV・甲府には「風林火山」の信玄公様サマで十分なのでしょう。浦和には、その地の風土となっている人物が居ないから、アルゼンチン、キューバの英雄が必要なのでしょうか?はたまた、浦和は世界基準の応援ということでしょうか?

2017年3月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―499『総合同人誌≪中央線≫』

 前話で紹介した「地平文庫」には、山梨県内の同人や誌友が文芸や評論、紀行文などを寄せて定期発刊されている総合同人誌「中央線」のバックナンバーが揃っています。


 
左側の紺色の6冊は、丸山さんが数冊ずつ合本して保存していた中央線です。
 

 これは、丸山太一氏が「中央線」の誌友として寄稿していたからでしょうが、多くの友人もこの同人誌に作品を発表していた関係で、定期購読して楽しんでいたものと思われます。

 

 総合同人誌「中央線」は、永く韮崎市の山寺仁太郎氏が発行人・編集長の任を務めていましたが昨年他界され、現在は北杜市の蔦木雅清氏が編集長、事務局は甲府の協和印刷社が引き継いでいるそうです。

 山寺氏は、韮崎の井筒屋醤油株式会社の経営者で、同郷の大村智博士と親しかったこともあり、ノーベル医学賞受賞以前から大村博士も12回寄稿しています。名前は本名の「智(さとし)」の音で「哲史(さとし)」とし、「大村哲史」のペンネームが使われています。

 

 大村哲史さんの作品は、ジャンルとしては随筆、随想ですが、全て故郷・山梨や身近な家族などが題材で、天下国家や先端科学を論じるラージAではなく、足元を論じるスモールaで共通しています。

「文は人なり」は、文章を読めば書き手の人となりが判断できると云うことでしょうから、大村博士を象徴するような文章でもあります。

 

 聞くところによりますと、山寺氏との友情から氏の亡き後、大村氏が「中央線」の代表を引き受けたそうですから、今後の「中央線」でも大村博士の文章を読むことが出来るものと思います。

 

 この「中央線」の歴史は古く、大正時代から活躍した熊王徳平、山田多賀一、佐藤森三、清水八束氏等々の県内の文学者・文化人が中心になって結成され、第一次・第二次「中央線」を経て、第三次「中央線」は、昭和43年3月から年一回発行で現在まで継続発行されています。

今回、丸山さんからご寄贈いただいた「中央線」は、上記の昭和43年3月の第三次「中央線」の10号からのバックナンバーです。

山寺氏、丸山氏をはじめ既に故人となられた方々も多いので、貴重な作品や思わぬ方の作品にも出合えますから、山梨の文芸に興味のある方にはもちろんですが、お知り合いや親族の作品もあろうかと思いますので、どうぞ時間を確保してお越しいただき、手に取ってじっくり検索や読書をお楽しみください。

 

 最後に同人「中央線」社の社規の発行趣旨を転載します。

 

 「我々は郷土の文化を愛しこれを広く紹介し、その発展につとめんとす。また文化一般について研究し、創作活動を通して、文化の向上に寄与せんとするものである。この趣旨目的の為に、研究会等を開催し、同人誌「中央線」を発行する。」
 

郷土の文化に対し「発展につとめんとす」「向上に寄与せんとす」と、はっきりした目的と意志を示す「何々せむとす」=「ムトス」が、「中央線」に参加した方々の共通したベクトルだったことを物語っています。

2017年3月1日水曜日

杉浦醫院四方山話―498『丸山蔵書・地平文庫誕生!』

  この度、故丸山太一氏のご遺族から、生前太一氏が収集し、研究してきた木喰上人、微笑仏関係の図書と研究資料の全てを当館にご寄贈いただきました。この中には、日本の仏像や歴史についての図書も多く、木喰上人を大きな歴史の中で捉えようとした丸山氏の思いが伝わります。


 生前からご寄贈いただいた分も含め、これだけまとまった木喰上人関係の資料がご覧いただけるのは、当館が初めてだろうと自負できる内容です。これは、散在させずに全てをまとめてご寄贈くださったご遺族の方々のご高配によりますから、あらためて敬意と感謝を申し上げます。 これも杉浦家と丸山家が「長年、親戚以上のおつきあいをしてきた(純子さんの言葉)」賜物ですから「ローマは一日にして成らず」の重みを感じます。

 

 丸山太一氏は、住いの甲府銀座の仲間たちと「ギンザフォトクラブ」を立ち上げてカメラに「入れあげ」たお話も伺いましたが、後に、総合同人誌「中央線」の誌友となり、「甲州風土記」のコーナーに「木喰仏私観」を連載するなど県内の文化活動には欠かせない存在でした。晩年は陶芸も始め木箱に入った幾つかの作品も見せていただきました。

 

 木喰の「微笑みて 微笑む人に 春の風」の句を好んだのでしょう、色紙や短冊に自ら筆をとり落款と共に「地平書」と記した短冊を頂戴しましたが、太一氏は自分の名前が「大地」の音と同じことから「地平」の名を号としていました。号も現代では、俳句や日本画などを除いては「ペンネーム」と呼ばれ、あまり使用されなくなりましたが、陶芸の木箱にも「地平作」とありますから、丸山さんは、木喰研究には本名の「丸山太一」を使い、趣味の書や陶芸には「地平」を使っていたことが分かります。


  一冊一冊に「丸山蔵書」の角印もありますし、新たな分野を切り拓いたり、先駆者となることを「地平を開く」と云いますから、この寄贈図書の総称を「地平文庫」と命名し、広く活用を図っていこうと思います。

 

 この「地平文庫」は、上記の木喰上人・微笑仏関係の図書と研究資料がメインですが、郷土作家の単行本と総合同人誌「中央線」のバックナンバーが揃っているのも貴重です。

順次、収蔵図書も紹介していきますが、閲覧のみならず貸し出しも可能ですから、ご利用ください。

2017年2月23日木曜日

杉浦醫院四方山話―497『秘密基地 或は ヨシマ大学』

  気温も高く春めいて来た日曜日の午後、子どもたちの声が飛び交うので、庭に出てみると兄弟とお友達と云った取り合わせの子ども達とお母さんの姿がありました。
池で、ザリガニ釣りを始めるのかなと思いましたが、お母さんも一緒なので声掛けはしませんでした。来館者の案内中も時折元気な子どもの歓声が聞こえ、来館者からも「子どもは元気でいいですね」と自然な会話になりました。

 
 金正男(キム・ジョンナム)氏「暗殺」事件で「秘密」とか「暗号」と云った謎めいた言葉が現実性を持ったのでしょうか?今朝、来てみると杉浦医院庭園外の死角に「秘密基地」が建設?されていました。

杉浦医院板塀と敷地外樹木の死角にブルーシートの屋根が・・

  大人もツリーハウスなど木の上に隠れ家を欲しがるわけですから、子どもの秘密基地は、洋の東西を問わず憧れの空間でしょう。名作「トムソーヤの冒険」では、基地は洞窟の中でしたが、「秘密基地」の第一条件は、簡単に見つからい、仲間だけの「秘密」の場所でなければ意味もありません。

 

 杉浦医院の南にある現在の「昭和浄水場」から西一帯は、6、70年前は「ヨシマ」と呼ばれた葦の生い茂る湿地帯だったそうです。伸びた葦は大人の背丈以上になり、秘密基地建設の格好の場所でした。

朝、家は出ても学校には行かず、直接「基地」に登校する子どももいて、親や教師が探しても基地にはたどり着けないよう精巧な迷路も作られていたそうです。その秘密基地に登校していた子ども達は、大人になると「ヨシマ大学卒」として通っていました。                     

  こういう秘密基地の建設や運営には、必ず信頼を集めるリーダーが必要で、指揮を執ったドンは、後に青年団とか消防団の団長になったり、議員や町長など村や町のリーダーとなり、「あいつは、ヨシマ大学でも大学院まで出ているから・・・」と一目置かれていました。やはり子どもの頃から統率力があったということでしょう。   

 

 このようにヨシマ大学卒業生にとっては、秘密基地は学校以上のことが学べた「私の大学」だったわけで、「私の大学」は仕事だったり、映画だったり、恋愛だったりと人それぞれでしょう。管理の行き届いた現代の子ども達には「夢のような時代と社会だ」と羨ましくもあるでしょうが、そこには「自由」と「危険」が表裏一体だったことも確かです。

 

 材木屋さんの倉庫に潜り込み、秘密基地を造って遊んでいた兄弟が、林立していた丸太が倒れ、下敷きになって命を落としたと云ったニュースもありました。

昭和町のヨシマも湿地帯でしたから、ミヤイリガイにも絶好な生息地でした。秘密基地に登校した子ども達は、近寄らなかった「お利口さん」より地方病に罹った確率は大きかったことでしょう。まあ、悲惨な結果をもたらすかもしれないけどたまらない魅力がそこにはあるのが「秘密」の誘惑で、子どもに限ったことではありませんね。

持ち寄った木片などには暗号も書かれていますが、初心者の秘密基地ですね。

 さあ、4日経ったこの秘密基地、いつまで?どのように発展するのか?消滅をするのか?しばらく見守っていこうと思います。

2017年2月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―496『手塚治虫を育てた丸山昭氏』

  2月9日の新聞各紙には、漫画編集者・丸山昭氏の訃報を伝える記事が載っていました。

例えば、山日新聞では下記の通りですが、他紙と違うのは小見出しに「甲府出身」の一行が入っていることでしょう。

クリックしていただくと判読できます。
 

 丸山昭氏は、当ブログのラベルの一つにもなっている木喰上人や微笑仏の研究家の故丸山太一氏の弟さんです。

丸山太一氏からも生前、弟の昭氏の話を伺いましたが、講談社の編集者だった昭氏ですから、著作権にも精通していて、太一氏の木喰仏研究論文をつなぎ合わせたような本をI氏が出版した時は、「弟からもこれはひど過ぎるので訴えるべきだ」と忠告されたと云う話を覚えています。

木喰の「まーるく丸くまん丸く」を地で行くような太一氏でしたから、訴えることもしなかったようですが、一時代前の著作権意識は現在とは違っていたのも確かでしょう。

 

 丸山昭氏は、甲府中学から学習院大学で哲学を専攻し講談社に入社、手塚治虫作品を多数世に出した編集者として著名ですが、伝説にもなっている江古田のアパート「トキワ荘」の赤塚不二夫や石ノ森章太郎、藤子不二雄、水野英子など無名だった漫画家を発掘した編集者として、NHKの記録映像にもなって放映されました。詳細は「丸山 昭さん|証言|NHK 戦後史証言アーカイブス」を参照ください。

 

 この証言の中で、私が興味を持ったのは、丸山さんら漫画編集者と手塚治虫を始めとする漫画家の努力と力量で、昭和30年代に入ると大漫画ブームが起こった時の証言です。

漫画ブームの到来で、いわゆる児童文学書が売れなくなったことも手伝って、漫画=悪書として「悪書追放運動」が盛んになりました。

「漫画を読むとバカになる」と云った一面的な評価は、校庭に漫画を持ち寄って焼く「焚書」騒ぎとなって全国に広がる程でした。

丸山さんは、その時代を振り返って、

「その時の異常というのはもう大変、もうまるで魔女刈りですね、もう論理も何もないんですよ。「漫画だからいけない」って。漫画の何がいけないんじゃなくてその漫画という表現形式が子どものためにはならないということで。それで「三ない運動」なんていうのが始まって「売らない・買わない・読ませない」かなんか「三ない運動」なんていうのが全国に広まって・・」と証言しています。

 

 そういえば、 昭和50年代にも高校生には「バイクの免許を取らせない」「バイクに乗せない」「バイクを買わせない」という「三ない運動」が起こりました。確か高等学校のPTA連合会の大会で決議され、全国に広がった運動でした。面白かったのは、「三ない運動」にプラスされ「親は子どもの要求に負けない」と云った「三ないプラス壱運動」なんて進化を競うような運動になったことでした。

 

 学校図書館にもマンガが置かれる現代からするとバカげた話ですが、丸山さんや手塚治虫など当事者には大変な受難の時代でもあったことが分かります。こういう中で、手塚治虫がとったスタンスが「いかにも大人だな」と感心させられました。

それは、「漫画・おやつ論」だったそうです。主食だけでは人は育たないから「おやつ」がある。教科書や児童文学は主食、漫画はおやつとして子どもには必要だとする反論だったそうです。

 

 そんな時代から、「漫画」は、片仮名で「マンガ」表記になり、現在では日本発の文化として世界に広がり、ローマ字の「MANGA」が共通語になっています。

 

 漫画やバイクなどのたどった歴史は、現在を生きる私たちに幾つもの教訓を残していることを哲学専攻の丸山昭氏の人生が教えてくれます。

甲府生まれの甲州人が世界に漫画文化を浸透させた先駆者であったことを誇ると同時に丸山太一・昭兄弟は、微笑仏と漫画と云う当時は未だ評価の定まらなかったジャンルを対象に生涯をかけて、信念で研究と発掘に努めた人生であることが分かります。

「カッコいい」とか「ダンディー」とは、こういう人を形容する言葉だと思わずにはいられません。

2017年2月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―495『マイナスネジ・プラスネジ』

 来館した見学者を案内していると見学者の視点や興味から、教えられることも多いのが、この仕事の面白さでもあります。

過日、ご夫妻でお見えになったご主人は、大変な「物識り」で、展示品ごとに色々ご教示いただきましたが、今回はネジについて紹介します。

 

 当ブログでも何度か紹介してきた応接室のピアノを案内した折「そうだね。これは歴史的なピアノだ。全てマイナスネジだもん」とピアノに使われているネジに着目しました。

「戦前のモノはすべてこのようにマイナスネジです。日本でプラスネジが使われるようになったのは戦後で、ホンダの創始者・本田宗一郎がヨーロッパから持ち帰って広まったっていう話だね」と。

「それでは」と、昭和4年建築の当館の建具や家具等のネジを確認すると御覧のように全てマイナスネジでした。

 

「長崎のグラバー邸の修復工事はひどいね。グラバー邸は日本最古の木造洋風づくりでしょう、ネジは使ってもマイナスじゃなければダメなのにプラスネジで修復されてるんだもの話にならんよね」とのご高説も。

お説の通り、村松貞次郎著『無ねじ文化史』によると、「江戸時代の工業製品にはネジの使用例はなく、江戸時代とは「ネジ無し文化」の時代である」とありますから、江戸末期に作られたグラバー邸にネジが使われ、ましてプラスネジとは「話にならん」ですね。


 要は、ネジを製作するには、優れた工作機械が必要だった訳で、ネジを作るという事が江戸時代はできなかったからこそ、ネジや金物を必要としない「木組み」等の工法も発達したのでしょう。


 プラスネジは、1935年(昭和10年)にアメリカの技術者ヘンリー・フィリップスによって発明されたそうです。この発明もマイナスネジはドライバーが滑ったり、ネジの溝が潰れたりして、そのたびに腹を立てた彼が「なんとかならないか」と考えた結果だそうですから、「必要は発明の母」は万国共通ですね。

 

 自称「アンティーク家具」なども使われているネジ一つで真贋がバレそうですが、こういう物識り家は、「目利き」でもあるわけです。

 腕時計は、まだマイナスネジしかなかった1920年代に誕生しましたから、ヨーロッパを中心とした歴史的な高級腕時計は、全てマイナスネジで職人たちのハンドメイドだったそうです。

そこからマイナスネジは高級腕時計の証となり、現在にも引き継がれていますから高級感を演出したり、アンティークなデザインにはマイナスネジは欠かせないネジですが、締めの強度や使い勝手の良さから、現代ではプラスネジが主流となっているようです。

2017年2月6日月曜日

杉浦醫院四方山話―494『ピアハウスしょうわ』

 今日の朝日新聞山梨版の「会いたい」のコーナーに「ピアハウスしょうわ」の運営に尽力している永島聰さんが紹介されていました。

旧西条交番の建物をいわゆる「ひきこもり」の方々のフリースペースとして利用して、交流と社会参加を促すよう図っていますが、永島氏個人による永続的な運営には無理もあり、その辺の悩みも紹介されていました。旧交番がひきこもり支援スペースと云うのも面白いのですが、交番は文字通り2~3人が一組で24時間交代で番にあたる所でしょうから、「ピアハウスしょうわ」もこれにならって利用者の交代制による運営も視野に入れていく必要もあるようです。


 

 永島聰さんは、数年前の山日新聞のシリーズ記事にも「元ひきこもり」として実名で登場しましたが、今回の朝日新聞でも自らのひきこもり歴を語って、ひきこもり当事者としての経験や思いを運営に生かしているそうです。

とかく日時を指定しての交流会が多い中、常時来たい時利用できる風通しの良さは、利用者には好評でしょうし、行き場に苦しむ方には得難いスペースでしょう。ひきこもりに限らず「当事者主義」と云う言葉や考え方も一般的になりつつありますが、永島氏のように具体的な実践活動に取り組む方は未だ少ないのが実態です。

 

 「当事者主義」では、例えば、高齢者やしょう害者のケースでもケアが中心になり、必ず「する人」と「される人」と云う相互関係が生じます。当然、「ハッピーな介護者でなければハッピーな介護はできない」と云う課題も生じ、より良いケアには、相互に高い意識と覚悟が求められたからこそ永島氏のように困難に直面する中で試行錯誤を余儀なくされてくるのでしょう。


 一層進むといわれる高齢化社会では、誰もが「ケアを受ける」時が訪れます。ケアするのは妻や夫、嫁など家族が前提だった時代から介護保険制度の導入で社会が看る時代に移行する中で、高齢者でなくてもしょう害者や不登校、ひきこもりなど様々な弱者もケアが必要になります。

 

 永島氏の指摘のように、このケアを「地域や社会も共に担っていく」ことが住みよい地域、町づくりには欠かせなくなっています。

「ピアハウスしょうわ」は、町福祉課と協働してオープンしましたから、昭和町の福祉施策の具体化でもあります。永島氏と利用者の当事者主義を尊重し、運営には口出ししないスタンスが町内外に利用者が広がっているのでしょう。


 当館庭園を「癒しの空間」として利用されている方もいます。当館から徒歩圏内にある「ピアハウスしょうわ」の利用者や永島氏に地域として何が出来るのか共に考えていく必要を示唆した記事でした。

2017年1月19日木曜日

杉浦醫院四方山話―493『やまなしレトロモダン』

  YBSテレビ(山梨放送)が、毎週火曜日に「やまなしレトロモダン」と云う番組を放映しています。これは、県内の歴史的建造物が次々姿を消していく中で、現在ある建造物を映像で残していこうという番組です。

 同時に旧杉浦醫院を保存して町の郷土資料館として活用しているようにレトロ・モダンな建造物は、地域の貴重な資産、資源でもあります。若い世代からも古民家が見直され、新たな息吹を取り込んで再生されている事例も聞きます。

 

 このシリーズの何回目になるのか、2月7日(火)夜9時54分から放送予定の「やまなしレトロモダン」で、杉浦醫院が紹介されます。短時間の番組ですが、建築物に絞った内容ですから当館内の建造物が細部にわたって紹介されるものと思います。

特に、過日行われた撮影では、ドローンを飛ばして上空からの撮影も行われましたので、鳥の視点で、国の登録有形文化財に指定されている五件の建造物全体を俯瞰できるのは楽しみです。

 

 もう一つ、この番組のナレーションは、YBSのアナウンサーではなく心理カウンセラーとして県内でご活躍の川辺修作氏が担当しているようです。

川辺氏は、学校カウンセラーや子育て支援活動でお馴染みですが、昨年当館で開催した「古典話芸を愉しむ教室」の紫紺亭圓夢氏等と共に山梨落語研究会のメンバーとして落語を子どもたちに教えたりのボランティア活動も行っています。東京墨田区の出身なのでしょう墨亭河童( ぼくてい かっぱ)の名前で、高座にも登場していますから、レトロ・モダンな建造物のナレーションにも味わいを添えてくれることでしょう。


2017年1月12日木曜日

杉浦醫院四方山話―492『元気もありがとう!ふるさと納税』

  納税者が自分の選択した自治体にお金を寄付することで、税負担が軽くなり、その自治体の特産品などが返礼として受けられる「ふるさと納税」が、ブームにもなっています。

 特に都会の納税者の意識を地方に向けることが出来たり、納付先の選択は納税者にあることなど税の意識化に寄与する制度だったことから、利用者も全国に広がったのでしょう。年々寄付金総額が増えると、総務省は上限額を2倍にしたり、確定申告の免除など制度改革を行い、より使い勝手を良くして利用者の増加を図っています。


 「ふるさと納税」のキャッチフレーズは、「ふるさと納税で 日本を元気に!」です。近々では、糸魚川市の大きな火災被害に対し、全国の心ある方々からこの制度を使った支援が寄せられ、復興を目指す糸魚川市民を元気にしていることでしょう。

 

 その半面、「自治体サービスの対価と云う税金本来の位置づけがあいまいになる」とか「返礼品目当てで、利用者の損得に頼る制度は逸脱している」との指摘も広がって、この制度に取り組む自治体の姿勢にも温度差があります。


 昭和町は、ふるさと納税に積極的かと云うと、「広報しょうわ」新年号の町長や議長の年頭所感でも一言も触れていませんから、本町への「ふるさと納税」は、故郷を離れている昭和町出身者が「ふるさとに・・・」と云う自然な寄付が主なのでしょう。

特に豪華で話題性のある返礼品を用意してまで「ふるさと納税」額を増やしたいと云う施策も採っていないのは真っ当ですから、それで良いのでしょう。

 

 そんな中で、今回うれしい「ふるさと納税」があったことを総務課からの連絡で知りました。

都内在住の20代女性から「昭和町の文化財保護」に使い道を指定した寄付が寄せられたという知らせです。

 添えられた町に対する「応援メッセージ」は、町民に寄せられた応援でもありますし、端的にして格調高い文章を勝手に要約するのは失礼の極みですから、全文を掲載させていただきます。


「先日、甲府へ旅行をした際に、この地にあった地方病というものを知り、杉浦醫院を訪れました。当時のまま保存されている医院は、100年以上にわたる闘病の歴史の重さを伝える迫力があります。地方病との闘いは、日本の近代化を語るうえで外してはならないものだと感じました。

また、事務局の方にとても丁寧に説明をいただき、地方病への理解を深めることができました。

少しでも地方病に関する文化施設、資料の保存に役立てていただければ幸いです」


 町の郷土資料館が、「ご縁」となり「ふるさと納税」 に繋がったと云う事例も珍しいかと思いますが、「実物」だけが持つ発信力にこだわった杉浦醫院の存在と展示を評価いただいた上で、ともすれば地方病にマイナスイメージを抱く県民も多い中、この闘いの歴史的位置づけにまで言及された応援メッセージは、県立博物館構想委員長だった歴史家・網野善彦氏の視点とも重なるものと拝読いたしました。

 

 東京の方が、山梨の小さな町に「ふるさと納税」いただいた今回のケースは、巷で話題の「返礼品」とか「ポイント」付加などと云った次元と一線を画した、本来の趣旨にのっとった本当の意味の「ふるさと納税」と言えるのではないでしょうか。


 お寄せいただいたご声援をご期待と受け止め、一層励んでいこうと「杉浦醫院は元気をいただきました!」と御礼申し上げます。

合わせて、応援メッセージを全文掲載させていただきました事にご理解を賜りますようお願い申し上げます。

PS:当ブログ公開後、総務課から「応援メッセージを精査したら、もう一件杉浦醫院を見学した東京都の男性から地方病関連に役立てて欲しいと、ふるさと納税がありました」と追加連絡が入りました。重ね重ね、誠にありがとうございました。

2017年1月10日火曜日

杉浦醫院四方山話―491『新カレンダーで・・・』

 当館のフルオープンに向けた工事は、3年前に終了しましたが、トイレの新築と土蔵と納屋、車庫の改修補強工事を請け負った昭和町の(株) S 建設さんが、毎年新しいカレンダーを届けてくれます。建設会社のカレンダーですから高級和風住宅の写真がメインのカレンダーです。


 写真左下にその月の写真の説明がキャッチフレーズと共に記されています。1月はご覧の写真に「スリッパをはかない生活のすすめ」とコピーがあり、この家のコンセプトが続いています。この写真は、杉浦家母屋の玄関からの景色と重なります。

 

 ちなみに、「スリッパ」の発祥は日本だと云いいます。長い鎖国の時代から幕末、明治にかけ欧米の外国人が日本に来るようになり靴を履きかえて家に入ってもらうため考案されたのがスリッパで、スリップ=すべるように履ける履物がスリッパの語源だそうです。


 日本の住宅も洋風化が進み、現代ではスリッパも多彩で好みに応じた必需品ですが、玄関から直ぐ畳にすることで、「スリッパをはかない生活」が出来ると云うのが今月の和風住宅の提案になっています。

足裏には沢山のセンサーがあって、普段からこれを刺激することが健康の秘訣でもあるから、スリッパを履かないで生活できる家は、健康住宅だと言う事でしょう。


 そう云えば、足裏を程よく刺激する為にスリッパではなくワラジを履いて診察している女医さんが昭和町に居ると云う話も聞いたことがあります。

また、靴下は履かずに素足の方が良いとか青竹踏みや足つぼマッサージなど確かに「足裏は第二の心臓」などとも言われていますから需要なのでしょう。

まあ、室内を歩くだけで健康になると、足つぼを刺激するイボイボ突起がある健康サンダルといったものまでありますから、ご提案の玄関から全て畳敷きの家も苦戦かな?と立派な和風住宅など夢のまた夢でしかない引かれ者の感想でした。

2017年1月4日水曜日

杉浦醫院四方山話―490『新年おめでとうございます』

新年あけましておめでとうございます

今年も橋戸さん手づくりの干支作品が受付で皆様をお待ちしています。

 そろそろ酉年を迎えるカウントダウンが・・と云う年末に「鳥インフルエンザ」発生のニュースが報じられ、動物園が休園になったり、多くの養鶏が殺処分されました。

 禽舎に一羽でも陽性の鶏が発生すれば、何千、何万と云う鶏が殺処分されていますから、誰もが処分される鶏を思わずにいられないことでしょう。

 

 「焼き鳥」のイメージから、殺処分も焼却かと思っていましたが、空気感染するインフルエンザは、燃え残ったウィルスが飛散することもあることから、埋めて処分しているようです。

完全な焼却炉のある所まで運ぶ過程で、ウイルスが撒き散らされて新たな感染を生んだこともあり、移動させず、その場に埋めるのが最善策となっているようです。

 

感染症が怖いのは、ウイルスは、どんどん変異を繰り返し、トリにだけ感染するのではなくヒトにも感染する変異の可能性もあるからでしょう。そういう意味で、現時点では、「殺処分は避けられない」が世界共通の対処法となっているようです。

酉年の年頭に「殺処分云々」で誠に申し訳ありませんが、「酉年」のトリは、まぎれもなく「鶏」ですから、避けては通れないかと・・・、これ以上の広がりが無いよう祈るばかりです。

 

話題を明るく変えましょう。「焼きトリ」と云えば「酒」ですね。

「酉」という字は、もとは果実を入れておく壺からきた象形文字で、その壺の中身が醗酵して、酒壺になったことから、これに水を表す「さんずい」を加えて「酒」の字も出来たそうで、酒より酉が先であることは明らかです。

 

ですから、酒飲みは、先ず焼き鳥を注文して、後から酒を頼む位の敬意を表さなければ酉に申し訳が立たないことになります。

酒に欠かせない「酢」「醤油」「味醂」から酒に付属する「お酌」「酔う」「醒める」にも「酉」が居ますから、今年は「酉」様に感謝申し上げながら「酩酊」することなく飲むようお互い気を付けましょう。

 
お口直しにカワイイ鶏をもう一枚