2017年7月23日日曜日

杉浦醫院四方山話―510『殺貝剤開発と田の草取り』-1

 梅雨明けと共に今年は空梅雨で、早くも山梨県内の農作物に影響が出だしたとの報道もありますが、いよいよ本格的な夏の到来です。

甲府盆地の夏は「炎天下」と云う言葉がピッタリの暑さが有名です。

現代ではエアコンの普及も進みそれなりの対暑策も講じられますが、日本住血吸虫症終息に向けて殺貝活動全盛期の昭和30年代までは、この炎天下の農作業である「田の草取り」が、甲府盆地の農民を苦しめていた過酷な労働でした。


 殺貝活動の中で開発された化学薬品が思わぬ副産物を生んで、甲府盆地の農民を「田の草取り」から救ったという地方病にまつわる明るい話が、宇野善康著「イノベーションの開発・普及過程」と云う本に記されていましたので、要約しながら報告します。


 宇野氏によりますと、その中心になったのが杉浦三郎氏と県農業試験場の由井重文技師でした。当時三郎先生は山梨県医学研究所の地方病部長もしていましたから、新たに開発されたサンブライトおよびDN-1の薬液が田んぼに侵入して水稲に薬害が出ることを案じ、三郎先生から山梨農事試験場の作物科科長であった由井重文氏に電話で薬害試験を依頼したのが始まりでした。

宇野氏はこの電話を「これは、殺貝剤が水田除草剤へと転換するきっかけを作った重要なコミニュケーションであった」と指摘しています。


 中間宿主ミヤイリガイの殺貝剤としては、長い間消石灰や石灰窒素が使われてきました。戦後GHQが甲府駅に停車させこの病気を研究した「寄生虫列車」では、強力な殺貝剤の開発も行われました。約6000種の化合物の中からミヤイリガイ殺貝に有効な2種類、「サンブライト」と「DN-1」を特定したそうです。

 

 この新開発の薬剤を実験指導者・杉浦三郎氏のもとで、1953年(昭和28年)5月15日に実験調査が行われました。散布する土地の土質条件の違いも考慮して県内4か所を選定してのフィールドワークでした。


 その結果、「サンブライト」と「DN-1」は、ともに90パーセント以上の殺貝効果が認められ、ミヤイリガイに有効な薬剤であることが証明されました。それを受け、三郎先生が由井技官に「ミヤイリガイ殺貝には有効だけど、これを水路などに散布することによって、水稲を枯らす心配はないかどうかを試験して欲しい」と云う依頼になったそうです。

 

 それは、この薬剤の散布で魚害ともいうべき魚の大量死を目の当たりにした三郎先生ですから、農民の命でもある米に被害が及ばないことの確証がなければ散布できないとの思いからだのでしょう。

2017年7月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―509『湯村温泉・昇仙閣・常盤ホテル』

  「甲府の奥座敷」とも呼ばれた湯村温泉は、湯村山のふもとにあり、歴史的には弘法大師の杖により湧出した温泉だとか、葛飾北斎から太宰治まで文化人が愛した温泉地とか言われてきました。また、真偽はわかりませんが「武田節」も湯村温泉が発祥の地との記載もあります。

 現在の湯村温泉では、老舗「常盤ホテル」に対し新興「甲府富士屋ホテル」といった図式も感じますが、甲府富士屋ホテルは本当に「新興」なのか?ひょんなことから調べてみることになりました。


 甲府富士屋ホテルのサイトを見ると結婚式等の会場も大小幾つかあるようですが、メイン会場は≪披露パーティ/SHOUSENKAKU【昇仙閣】≫と、懐かしい「昇仙閣」の名前が出てきます。

 山梨県内の「歴史資料」をネットで公開している「峡陽文庫」は、その質の高さと詳細さに加え貴重な画像資料が豊富で、当サイトへの転載使用も許可いただいて来ました。甲府富士屋ホテルの歴史もこの「峡陽文庫」に上記画像と共に下記の簡潔な記述がありました。


『昇仙峡ホテルは昭和12年に甲府市郊外(当時は西山梨郡大宮村:昭和17年4月1日に甲府市に合併)の湯村温泉に開業し、同17年には名称を『昇仙閣』と改めている。
 その後、昭和37年10月5日には国際興業株式会社により買収され、新館の建設など拡張・整備されながら営業されてきたが、昭和63年に営業を終了し同年2月5日に昇仙閣跡に新たなホテルの建設が着工され、平成元年10月17日に『甲府富士屋ホテル』がオープンし現在に至っている』


 上記から、現在の甲府富士屋ホテルは、山梨の名勝地「昇仙峡」の入り口のホテルとして、昭和12年に「昇仙峡ホテル」の名称でオープンし、5年後に「昇仙閣」と改め昭和37年まで常盤ホテルと並ぶ湯村温泉の代表的ホテルだったことが分かります。そういう意味では、甲府富士屋ホテルも湯村温泉の老舗ホテルであることが、敢えて「昇仙閣」の名前をホール名に残していることでもうかがえます。

敗戦前の昇仙閣には、東京目黒にある鷹番小学校の学童が集団疎開していたそうですから、昇仙峡は秘境として人気があった時代、旧西山梨郡大宮村の湯村温泉も現在とは違った山村だったのでしょう。


 以前、古老から「昔の馬返し場所だった所が、今の常盤ホテルだ」と云った話を聞きました。

甲府市中心街(柳町周辺)から甲府駅や石和、富士川舟運の鰍沢等を馬車が結んでいた山梨馬車鉄道が後に山梨軽便鉄道となったそうですが、その資料には甲府中心街と湯村温泉を結ぶルートの記載はありませんでした。しかし、現在の常盤ホテルは、湯村温泉郷の入り口に位置していますし、甲府の奥座敷に定期馬車が人を運ぶ実需もあったでしょうから、古老の話には信憑性もあります。

この山梨馬車鉄道や山梨軽便鉄道は、山梨県の民間公共交通の元祖でしょうから、詳細を調べていきたいと思います。

2017年6月12日月曜日

杉浦醫院四方山話―508『第5回 杉浦醫院・院内コンサート』

 今週の日曜日18日(日)に標記の院内コンサートを開催します。

これまでも開催後に報告を兼ね院内コンサートの紹介をしてきましたが、今回は開催前に演奏者の紹介をしておきたいと思います。

 

 杉浦醫院・院内コンサートは、医院棟応接室に昭和9年から設置され、三郎先生のお子さんである3姉妹が使っていた杉浦家のピアノを価値ある調度品として展示しておくだけでなく、80年以上の時を経ても十分演奏用としても使用可能である実態をコンサートを楽しみながら確認いただこうというのが始まりでした。

 現在、日本に三台しか残っていないという今上天皇の生誕を記念して、日本楽器(YAMAHA)が日本で百台限定で受注生産したと云うピアノが、この地に現存していることも昭和町の誇りですが、文化風土の継承として、このピアノをメインにしたコンサートを企画していくことは、文化財の活用という観点からも意味があります。


 今回のコンサートは、ピアノとフルートの共演で、ピアノは昨年に続き広瀬史佳さんです。


広瀬さんは、甲府市生まれで桐朋学園大学音楽学部演奏学科を卒業後も研鑽を重ね、山梨芸術祭賞はじめ大阪国際音楽コンクールやソレイユ新人オーデション等々で優秀賞等多数受賞し、現在は山梨大学非常勤講師として後進の指導にもあったています。


 

このコンサートの為にお二人は3回のリハーサルを当館に出向いて行います。音楽ホールのように計算された音響設備はありませんから、ピアノとフルートの音量のバランスやフルート奏者の立ち位置などを調整し、このピアノ独特の音色をどうフルートの音と調和させるかに余念がありません。演奏者にとっては、ホールとは違う院内コンサートならではのご苦労もありそうです。


今回、室内楽では人気のピアノとフルートのデュオを広瀬さんが組んでくださいましたが、フルートは、同じく甲府市生まれの横内絢さんです。

 

横内さんは、武蔵野音楽大学卒業後、ハンガリー国立交響楽団首席奏者バーリトン・ヤーノシュ氏のもとで研鑽を積み、東京、神奈川を中心にオーケストラからオペラ、室内楽、ソロまで幅広い演奏活動で著名です。

「パール・フルート東京ギャリ―」においてフルートの指導も行うご多忙の中、故郷山梨での演奏も多く、昭和町でも2回目となります。


 当日は、プログラムもお渡ししますが、お二人による楽曲や楽器の紹介など狭い空間ならではのアットホームなコンサートをお楽しみください。尚、定員まで残すところ若干名となりましたので、お申し込みはお急ぎください。

2017年5月31日水曜日

杉浦醫院四方山話―507『山梨の同人誌「中央線」雑感』

 木喰上人と微笑仏の自称「在野研究者」であった故・丸山太一氏の蔵書が当館に寄贈され、その中には山梨の同人雑誌「中央線」のバックナンバーもあることは499話で紹介しました。

そんなことから、現編集長の蔦木雅清氏が来館くださったり、この度は同人のIさんが、バックナンバーで欠けていた十数冊の中央線を持参下さいました。この場で恐縮ですが御礼申し上げます。


 山梨県には「中央線」と云う文芸誌が、古くから有ることは知っていましたが、どのような方々のどんな内容の雑誌なのかは丸山さんからご寄贈いただくまで知りませんでした。

雑誌の巻末には、同人や誌友になっているメンバーの氏名・住所・電話番号が名簿として付いていますから、じっくり確かめてみました。


 毎号作品を寄せている方と名簿に名前はあるけど作品には、お目にかかれない方に大きく二分される感じで、こういう方々が定期読者として発刊を支えているのだろうと推測しました。

 

 同人・誌友名簿約70名の中に高校時代の同級生1名、同級生の父親2名、社会教育に携わった中での知り合い4名、山日新聞文芸欄や単行本等の作品を通して名前を知っている方4名の計11名の方々を認識することが出来、あらためて山梨県という風土ーたとえば人間関係の密度ーなどについて考えさせられました。


 さっそく、同級生K君の作品が掲載されている号を探し拝読しました。「恥ずかしの青春期」と題した小品でしたが、一気に読ませる楽しい内容で、時代と場所の違いこそあれ北杜夫の「ドクトルまんぼう青春記」を彷彿させる池袋要町の木賃下宿屋での学生生活と階下に住む大家さん家族との現在に至る交友記で、「文は人なり」を表象しているK君ならではの作品でした。

 

 直ぐ名簿にある電話番号に電話して、K君と「中央線」の由来を尋ねました。「韮崎高校の校長になって、韮崎市の山寺仁太郎さんが大学の先輩だから挨拶に行ったら、山寺さんが編集長と発行人になっているということで誘われたのが始まりでね」と教えてくれました。大村智氏も山寺氏と旧知であったことから、大村哲史のペンネームで「中央線」に寄稿して、山寺氏亡き後の中央線の代表も引き受けられているそうですから、山寺仁太郎と云う個に連なる方々も多いのでしょう。これを一般的には人脈などとも形容しますが、この手の同人誌は人脈を生かして云々とは別世界ですから、山寺氏の個人的魅力が成せる同人と云う一面がうかがえます。同時に同人誌は離合集散が常ですから、中央線の継続発行の歴史には、山寺氏のようなキーパーソンとなる個人の存在が多きかったことを物語っています。

2017年5月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―506『地方病認知度調査』

 昨年、一般社団法人「比較統合医療学会」が、山梨県民を対象に行った日本住血吸虫症についての認知度調査の結果が、過日の山日新聞で報じられました。


 この調査によりますと南アルプス市の中学生で、地方病と呼ばれた日本住血吸虫症について「知っている」と回答した中学生は、何と1パーセントだったそうです。


 その報を受けて、山日新聞の論説委員が一面下段のコラム「風林火山」で、この実態についての感想を記していました。

2年生の地域探検に続き、今日は西条小学校の4年生が「総合の学習」で地方病を学習に来館しました。


 この一連の報道に接し、あらためて「山梨県の郷土史」についての問題を提起せざるをえません。

 

 明治14年から平成8年まで、1世紀以上に及んだ地方病との闘いの歴史は、山梨県の近現代史で最大かつ貴重な歴史物語を内包しているにもかかわらず、山梨県内の社会教育や生涯学習機関では、郷土史と云えば相変わらず「武田信玄」関係が八割以上を占めているのが実態です。

昨年、県外の放送局が「何だこれ!ミステリー」と、地方病と終息に至る過程をミステリーな病と歴史として全国放映しました。この番組を観て、来館された方の多くは県外からの方々でしたから、奇病とされていた時代「死に至る病」だった歴史が、「地方病は山梨の恥部」と云った固定観念となり県民にも定着しているのが原因なのでしょうか?


 物事や歴史には必ず二面性があるのは常識ですが、「死に至る病」と云う側面だけでなく、行政のみならず住民も一体になって「協働」で終息させた山梨の地方病終息史にもっともっと光をあてるべき時代ではないでしょうか?

どこの自治体でも「協働のまちづくり」をキャッチ・フレーズに掲げているのが現代です。行政が音頭を取らなくても住民が区長を代表に「御指揮願い」を県令に訴えて始まった地方病対策は、終始「協働」の「まちづくり」の歴史でもあります。その側面から、それぞれの市町村の取り組みを掘り起こし、現代に繋げていくのが真っ当な郷土史の学習ではないでしょうか?


 山梨近代人物館では、地方病の先駆者として当館の杉浦健造氏が唯一取り上げられています。県内初の人体解剖を申し出て、新たな虫卵の発見に結びついた明治時代の杉山なか女や虫体を発見した三神三朗氏。治療と予防に生涯をささげた杉浦三郎氏から林正高氏まで日本の医学史上も欠かせない多くの先駆者がこの病と格闘してきました。

また、県内保健所の検便師から薬袋氏始めとする県衛生公害研究所の方々の奮闘など決して杉浦健造氏ひとりが武田信玄よろしく引っ張った歴史でないことに地方病の歴史伝承の価値もあるように思います。


 「もはや、地方病は終わった」として、昭和40年代後半には、山梨の学校教育からも地方病は消えました。現在の父親・母親の世代も学校では地方病を学んでいませんから、上記の認知度も「さもありなん」と云う数字です。新聞記事には、当館の存在が昭和町の中学生の認知度には反映されている旨の指摘もありましたが、県内の資料館としては、最後発の当館が地方病伝承を掲げた唯一の資料館です。「その存在意義を発揮して、山梨の地方病の歴史を地道に伝承していこう」と励みにもなった認知度調査の結果でもありました。

2017年5月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―505『衛生車 TROY - スミ331』-3

 「衛生車」と云う名称は、タンクを備えたバキュームカーを連想するのが一般的ですが、GHQが接収して改造した客車を「衛生車 TROY - スミ331」と「研究車」ではなく敢えて「衛生車」と命名したのには何か理由があったのでしょうか?

 広島の被爆調査目的に造られた衛生車であったことは、前話で触れましたが、何故?甲府駅に常駐して地方病についての調査研究に向けられたのかもミステリーです。

  その辺を調べていくと「406総合医学研究所」の光だけでなく影について、あるいはGHQを実質支配した米軍と占領下の日本に行きつきます。

 

 記録によると1947年5月21日に米軍の命令で、東大の伝染病研究所の半分を厚生省に移管して、厚生省所管国立「予防衛生研究所」=「予研」が設置されました。その予研には、戦争中731細菌戦部隊に協力した日本人医学者が、戦犯の免責と引き換えに多数集められ、米軍の406部隊の下請け研究機関としての役割を担い、米軍が大規模な細菌戦を展開した1950年からの朝鮮戦争や1960年からのベトナム戦争へと繋がりました。特にベトナム戦争では、猛毒ダイオキシンを含む枯れ葉剤の大量散布など近代化学兵器が使われ、その被害は二世や三世にまで数百万人にのぼると云われています。

 

 このように米軍の406部隊は、日本の旧731部隊同様アメリカの細菌戦部隊で、アジアでの生物戦争部隊として細菌学から寄生虫学、病理学、血清学、化学などの専門部門に米軍将校の教授9人、助教授2人、技術研究者25人に加え、上記の予研に集められた日本人研究者100人以上で構成されていたそうです。

 

 この米軍の細菌戦部隊406部隊が「406総合医学研究所」になりましたから、日本に設立させた予研を監督し、生物・化学戦の為の研究が主眼であったことからすると寄生虫学の研究班が広島の被爆調査目的に造られた車両「スミ331」を使って、日本住血吸虫症の研究に甲府に来たのも必然だったことが分かります。

 

 後に、アメリカの科学史専門家も、当時の予研は「熱心な占領軍機関で植民地科学の典型だった」と評しましたが、このような米軍との人的協力関係は、公的には1980年代まで続き、今もってその影響下にあると指摘されることもあります。

 

 406総合医学研究所は、甲府駅構内の研究施設でミヤイリガイ殺貝剤の開発研究や患者の検便なども行い、住民からは「寄生虫列車」と呼ばれ、山梨県民にも親しまれたと云う光の部分は、映画「人類の名のもとに」でも明るく紹介されています。この日米共同研究はその後9年間続き、主に殺貝に使用するための薬品テストを行ったと云われています。米軍が持ち込んださまざまな薬品の中から有機塩素化合物のサントブライトに有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製することが可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、ペンタクロロフェノールナトリウム(略称Na-PCP)の開発に成功し、山梨県内のミヤイリガイ殺貝に威力を発揮しました。

 

 しかし、406総合医学研究所と山梨県が共同制作した幻の映画「人類の名のもとに」を当館と科学映像館が協働して発掘し、科学映像館のサイトで放映されると現代の科学者から「河川や湖沼、地下水といった環境水の化学物質による汚染は、現代では、世界的な大問題ですから、ペンタクロロフェノールを使った甲府盆地の映像は、今ではとても考えられないことです。殺貝作業に従事した住民には、この薬の中毒で苦しんだ人がいたかも知れませんね」と、ご教示をいただきました。

 

 朝鮮戦争での細菌兵器やベトナム戦争での枯れ葉剤が、この延長線上でないこと願うばかりですが、「日本の黒い霧」の松本清張亡き後ですから、「地方病終息」の名のもとに有病地帯での新化学兵器開発やその人体への影響実験であったのか否かは、深い深い霧の中としか言えません。

2017年5月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―504『衛生車 TROY - スミ331』-2

  GHQ専用車両は、国鉄の優良車両を接収した当時の日本では最新鋭の客車だったことは、前話のとおりですが、GHQはその客車を目的に応じて改造を命じたそうです。

「衛生車 TROY - スミ331」は、医療検査と研究が目的でしたから、長野工機部が1946年(昭和21年)に車種スハ32642を改造して製作したものです。

 下の写真のように客車であった車種スハ32642の座席はすべて撤去され、両サイドの窓際に並行して机や消毒器、その上には収納棚などが設置され、客車の面影はありません。

「放射能影響研究所所蔵写真」から
 

 甲府駅に置かれた「寄生虫列車」と呼ばれたGHQ専用車両は、「寝台車」「食堂車」「研究車」の3両編成だったと聞いておりましたが、正確には4両編成だった可能性もあることが分かりました。


 早坂元興氏が「鉄道ジャーナル」に2回に分けて連載した記事によると≪スミ331は付随車とペアを組んで運用されていた≫そうです。

ペアの付随車には、発電機や空気圧縮機、ボイラーなどが設置されていて、屋根には水タンク2基があり、スミ331の研究車両に電気や水を供給していました。更に、ジープ一台も積載されていたそうですから現地視察用のジープの運搬車も兼ねていたのでしょう。

 

 1945年8月15日の敗戦のわずか12日後には、GHQ406医薬補給部の軍医が杉浦醫院にジープで乗り付け、三郎先生に日本住血吸虫症の治療方法の伝授を依頼に来ていますが、この付随車が完成したのは1946年8月31日だそうですから、GHQ406医薬補給部のあった神奈川県相模原市からジープを運転しての来訪だったことも分かります。その後もジープに乗ったアメリカ人が杉浦醫院によく来ていたそうですから、甲府駅の付随車に積載されていたジープが機動力を発揮していたのでしょう。


 この付随車両は、「ホミ801」と呼ばれ、改造前の車種は「ワキ700」と云う海軍専用車両だったことから、もともと窓のない車両を生かして改造されたようです。車両の長さも他の車両より短く窓もなかったことから、スミ331と一体で合わせて一両とカウントされていたのかもしれません。

また、スミ331とホミ801のペア車両改造製作の目的は、地方病の研究にではなく、米軍が広島に投下した原子爆弾の被爆調査だったというのが真相のようですが、どのような経緯で甲府駅に常駐して、地方病の調査・研究に使われたのか?その辺の詳細を伝える資料には未だ行きつきません。

2017年4月30日日曜日

杉浦醫院四方山話―503『衛生車 TROY - スミ331』-1

 先に何度かご紹介した敗戦後、甲府駅に停車していた「寄生虫列車」について、機関車名など正確な情報が分かりましたので、お知らせしようと調べていくと「車両」にまつわる歴史や背景など複雑多岐にわたり、とても生半可な学習では要約できないことが分かりました。

 まあ「分からないことが分かれば上等」と云った慰めもありますから、一つずつ整理できたことから順次お知らせしていくことで、最終的に全容がお伝えできれば・・・と思い直し書き始めてみます。

 

 下の写真が、「寄生虫列車」と呼ばれた「衛生車 TROY - スミ331」 の全景で、「奥野利夫氏撮影客車写真1」から拝借したものです。

 
 

 先ずこの段階で「奥野利夫」氏の客車写真の枚数と分類に驚かされてしまい、奥野利夫氏について知ろうとネット頼りに検索していくと奥野氏に続く鉄道写真家の地道な撮影と記録に唸ってしまいました。

参考までにその一つにリンクを貼っておきます。

 このように、「奥野利夫」氏を通して分かったことの一つは、いわゆる「鉄ちゃん」と呼ばれる鉄道愛好家は、大きく「撮り鉄」と「乗り鉄」に分類されいるということでした。「撮り鉄」も「乗り鉄」も読んで字のごとくですが、鉄道関係の写真を撮影する「撮り鉄」でも列車や電車の車両を追う者と駅や鉄道グッズを追う者など更に分化しているようです。

 

 要は奥野利夫氏は、「撮り鉄」の元祖的な存在がだったのだな・・ということも見えてきました。氏が撮影し残した多くの写真を後年まとめたのが「奥野利夫氏撮影客車写真1」であり「同2」へと続いているのでしょう。

 更に奥野氏の写真の撮影年月日は「1950年(昭和25年)」前後が中心ですから、敗戦国日本に進駐した連合国総司令部(GHQ)が日本の鉄道をGHQの管理下においた時代です。

ですから、当時の列車の写真集は、日本の鉄道史上大変まれな(超レアな)写真と云うことにもなります。

 

 それは、GHQの輸送司令部は日本の国有鉄道(国鉄)に対し、保有する優良客車を接収し、用途に応じた改造を命じ、それらを専用列車として独自のダイヤで運転するよう要求したそうです。この連合軍に接収・改造された客車群を撮ったのが奥野利夫氏だった訳で、氏の写真を元にした記録誌や書籍も入手困難な貴重品になっているようです。

 

 1950年(昭和25年)前後は、敗戦にともなう旅行自粛も解除され、鉄道需要も急増し出した中、優良客車は接収されましたから、戦争中の酷使により疲弊していた客車ばかりの当時の国鉄の車両は、悲惨な状態だったそうです。これに対し、GHQ専用客車は、色も茶色に塗り替えられ、横には白線が一本通り、当初は白線上に「U.S ARMY」もプリントされたそうですが、連合軍にはイギリス軍も入っていましたからクレームが付き消されたそうです。

このように「衛生車 TROY - スミ331」始めとするGHQ専用客車は完全整備され、敗戦国の日本人には近寄ることもできない豪華客車として羨望と畏怖の対象だったことも分かりました。

 

 この調子だと『衛生車 TROY - スミ331』は、いつまで続くのか?ですが、70年以上前、占領下の日本や山梨の当時について「GHQ専用客車」を柱に振り返ってみるのもあながち無駄なことでもないように思いますので、お付き合い下さい。

2017年4月11日火曜日

杉浦醫院四方山話―502『春の庭園で春の鐘』

 この季節、テレビも新聞も「桜」の話題ばかりで、花見に行かないのは日本人じゃないみたいな感じですが、桜も酒も冒涜しているような花見と称した宴会も含め、果たしてどれほどの人が桜を愛でに花見に行っているのか?その辺の正確な統計も報じて欲しいと思う今日この頃です。

まあ、桜の名所に足を運ばなくても日本には至る所に桜はありますから、身近な桜を手軽に観賞するのも興あることと思います。そんな意味では、 杉浦醫院庭園も春真っ盛りですから「お見逃しなく」とご案内いたします。先ずは、庭園に咲く花木の写真を5枚貼りますので、クリックしてご覧ください。

  

 「ポツンと一本咲いている山桜を一人で観るのが好きだ」と書いていた立原正秋の代表作に「春の鐘」があります。散りゆく桜を彷彿させる滅びゆく日本の美しい情景の中に男と女の移ろいやすい愛を重ね、大人の愛の宿命を描いた作品です。

 立原亡き後、「南極物語」の蔵原惟繕監督が映画化しました。舞台は原作どおり古都・奈良で、男と女のどろどろした愛の営みを、古都の美しく静かな世界の中で対比的に描くことで、無常観を一層漂よわせた名画だと個人的には思っています。


 題名も「春の」ですから、自然に平家物語の「祇園精舎のの声 諸行無常の響きあり」が連想され、二重三重にも計算された作品のように思いますが、春=桜花=無常だからこそ「バカ騒ぎの花見」に酔いたくなるのでしょうか。

また、桜は新たな門出を祝う花でもあるようですが、それも含めて諸行無常観が募るのは、矢張り寄る年波のせいでしょう。


「ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり」「ゆくかわのながれはたえずして しかももとのみずにあらず」「ぎおんしょうじゃのかねのこえ しょぎょうむじょうのひびきあり」「ゆくかわのながれはたえずして しかももとのみずにあらず」 しつこいのも歳のせいです。

2017年3月25日土曜日

杉浦醫院四方山話―501『春を呼ぶ・ホタルの放流』

 山梨の「春を呼ぶ」行事では、南アルプス市で2月初旬に開催される「売っていないものは猫のたまごと馬の角」とも云われている「十日市」が有名ですが、その後大雪が降ったりで、春を呼びきれないこともありますね。

昭和町の「春を呼ぶ」は、この30年、この時期に行われてきた「ホタルの放流」でしょう。杉浦医院庭園では梅が咲き、桜の蕾も膨らみかけていますから、正真正銘、春を呼んでの放流です。


 今年は、20日と22日の両日にホタルの放流会を行いました。

20日は、当館と協働で源氏ホタル復活活動に取り組んでいるNPO法人「楽空(らく)」の放流会でした。毎年、新たな試みでホタルの増殖を図ってきましたが、今年は4月から楽空のメンバーは、休み返上で日曜日にホタル小屋を建設してきました。この小屋は、来年の幼虫を確保する為に種ホタルを採集して産卵させる施設でもあります。

 

 もう一つの目的は、5月下旬に開催される「ホタル観賞会」や「ホタル夜会」に多くのホタルが飛び交うのを観て欲しいという願いからです。楽空でホタル部長をしている古屋さんは、5月中旬から杉浦醫院の池を夜回りして、ホタルの発生数を確認してきましたが、前夜2,30匹確認しても直ぐ4,5匹に減少してしまうことに悔しい思いをしてきました。

夜回りの中で、虫かごと補虫網を持参してくる親子を何組か見かけていたこともあり、この時期、池のホタル採集を楽しみにしている家族の存在に、これでは、肝心の観賞会に寂しい数のホタルしか舞わないので、採集不可能な池以外の発生施設が必要と、「ホタル小屋」建設に踏み出しました。

10か月間飼育してきた水槽に何匹の幼虫が育っているか?メンバーは一匹一匹数えながら幼虫を取り出し、放流しました。1水槽に180匹を確認し、カウント漏れを20匹とし、3水槽分600匹をホタル小屋と池に2分して放流しました。

 22日は、昭和町源氏ホタル愛護会のホタル放流式が当館の庭園池でありました。愛護会メンバー始め、来賓と昭和保育園園児の手から、当館旧車庫の源氏館で、飼育してきた幼虫3水槽分が放流されました。ホタルの幼虫は自然界では、魚やザリガニの絶好の餌でもありますから、石や砂利と区別が使いないように丸まって身を守りますが、水だけになると伸び伸びと歩き回ります。

コップの中の幼虫を見た子どもたちは「これがホタル?」とか「気持ち悪いね」とそれぞれが感想を口にしていましたが、浅川愛護会長から「皆さんが放した幼虫が5月の終わりには元気なホタルになって舞うように気持ちを込めて放流してください」と呼びかけられると「はーい」と答えて池に向かいました。


 20日に放流した楽空分と合わせ約1000匹以上の幼虫が放流されたことになります。池とホタル小屋にほぼ同数の幼虫ですから、5月末の成虫発生数に差異が出るのかも楽しみです。

要は、試行錯誤を重ねて、最終的には庭園の池にホタルが自然発生するのが皆の願いですから、今後も愛護会と楽空の二団体が、お互い協力しあって目的が達成されるよう当館も図っていこうと思います。

先ず、ホタルの幼虫を初めて見た昭和保育園年長組さん28名が放流しました。
 

2017年3月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―500『500話雑感又はチェ・ゲバラ』

 先月の山日新聞で、当四方山話が「間もなく500話」と、私の顔写真入りで紹介され、「源氏蛍」と云う源氏名で書いてきたブログですが、顔と名前が割れてしまいました。

チェ・ゲバラの教えに「革命家の条件は名前と顔が割れていないこと」がありますが、革命家に限らず市井を大過なく生きようと思っている凡人にも共通する名言だと「座右の銘」のようにしてきました。

まあ、60歳の定年までは、おおむねゲバラの教えに従ってきたように思うのですが、この仕事に就いてから露出度が多くなり、悩ましいところでもあります。


 杉浦醫院は、県内でも最後発の郷土資料館ですから、先ず、当館そのものの存在を知っていただく周知活動は、率先してやらなければなりません。ホームページもその一環ですから、観ていただく為には、「更新」が欠かせません。ホームページ更新の為のブログ導入もゲバラの「戦術」に学んだつもりです。

 

 また、新聞やテレビなどマスコミは、ホームページ以上の広報効果がありますから、取材には全て応じ、杉浦醫院の周知と来館につながるよう図ってきました。これもゲバラの教え「単発より繰り返し」に従い、その為に展示内容の更新やイベントの開催など取材価値と意欲を喚起するよう取り組み、いつの間にかカメラにも慣れ、カメラ写りまで意識する「堕落」ぶりです。「人間堕ちるのは速い」と言いますが「堕ちるとこまで堕ちれば這い上がるしかない」も真理でしょうから、自分のことはさておき、新たな戦術を編み出すまでは、当ブログも継続しかありません。

 

 振り返って、500話まで継続できたのは、来館者から「ブログを読んで来ました」とか「ブログで新たな資料が入ったようなので取材に行きます」と云った反応が少なからずあることです。

 

 もう6年以上前の4話「寄生虫列車」を読んで、東京から来館いただいた自称「鉄道オタク」さんは、ブログに記載してあった出典本を確認に来たと云う予想もしない目的での来館でした。

その数日後、鉄ちゃんから寄生虫列車の写真や詳細を伝える古い「鉄道ジャーナル」誌の存在を突き止めた旨の連絡をいただきました。それは、「GHQの落とし子 衛生車スミ331≪TORY≫の足跡を追って」と題する早坂元興氏の記事でした。この詳細については追って紹介しますが、寄生虫列車の内部写真もあり、そこには三郎先生も写っていますから、当館にとっても貴重な資料となりました。この場をお借りして、八王子の鉄ちゃん様に御礼申し上げます。


 前々話で『丸山蔵書・地平文庫誕生!』  をお知らせしましたが、さっそく山日新聞と朝日新聞から取材がありました。両記者は、プリントアウトした四方山話を持参してみえましたから、話もスムーズに進みましたが、質問に答えながら「そうか、その視点が必要だったな」と、ブログを書いていく上での基本についても教えられてきたのが取材でもあります。何よりも「次のブログでは何を紹介しようか」 という意識でいると、うっかり見過ごしてしまいそうなことにも眼が行ったり、きちんと調べたりする習慣が少しは身に付いたように思います。そう、ゲバラの「ある日の真実が、永遠の真実ではない」の意味も少し理解できるようになった感じもしますから、何のことはない「僕自身のためのブログ」というのが客観的なところでしょうか。  

 

 先日、ヴァンフォーレが大敗を喫した浦和レッズの応援には、チェ・ゲバラの肖像を掲げた旗が目立ちます。ゲバラは、その思想と行動力に加えカリスマ的な顔立ちも魅力ですが「不屈の精神の持ち主」であったことが人を惹きつけ、サポーターには、最後まで闘えと云う応援メッセージになるのでしょう。

J1で云えば、チェ・ゲバラは、浦和より甲府に必要かつ似合う存在だと思うのですが、やはりV・甲府には「風林火山」の信玄公様サマで十分なのでしょう。浦和には、その地の風土となっている人物が居ないから、アルゼンチン、キューバの英雄が必要なのでしょうか?はたまた、浦和は世界基準の応援ということでしょうか?

2017年3月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―499『総合同人誌≪中央線≫』

 前話で紹介した「地平文庫」には、山梨県内の同人や誌友が文芸や評論、紀行文などを寄せて定期発刊されている総合同人誌「中央線」のバックナンバーが揃っています。


 
左側の紺色の6冊は、丸山さんが数冊ずつ合本して保存していた中央線です。
 

 これは、丸山太一氏が「中央線」の誌友として寄稿していたからでしょうが、多くの友人もこの同人誌に作品を発表していた関係で、定期購読して楽しんでいたものと思われます。

 

 総合同人誌「中央線」は、永く韮崎市の山寺仁太郎氏が発行人・編集長の任を務めていましたが昨年他界され、現在は北杜市の蔦木雅清氏が編集長、事務局は甲府の協和印刷社が引き継いでいるそうです。

 山寺氏は、韮崎の井筒屋醤油株式会社の経営者で、同郷の大村智博士と親しかったこともあり、ノーベル医学賞受賞以前から大村博士も12回寄稿しています。名前は本名の「智(さとし)」の音で「哲史(さとし)」とし、「大村哲史」のペンネームが使われています。

 

 大村哲史さんの作品は、ジャンルとしては随筆、随想ですが、全て故郷・山梨や身近な家族などが題材で、天下国家や先端科学を論じるラージAではなく、足元を論じるスモールaで共通しています。

「文は人なり」は、文章を読めば書き手の人となりが判断できると云うことでしょうから、大村博士を象徴するような文章でもあります。

 

 聞くところによりますと、山寺氏との友情から氏の亡き後、大村氏が「中央線」の代表を引き受けたそうですから、今後の「中央線」でも大村博士の文章を読むことが出来るものと思います。

 

 この「中央線」の歴史は古く、大正時代から活躍した熊王徳平、山田多賀一、佐藤森三、清水八束氏等々の県内の文学者・文化人が中心になって結成され、第一次・第二次「中央線」を経て、第三次「中央線」は、昭和43年3月から年一回発行で現在まで継続発行されています。

今回、丸山さんからご寄贈いただいた「中央線」は、上記の昭和43年3月の第三次「中央線」の10号からのバックナンバーです。

山寺氏、丸山氏をはじめ既に故人となられた方々も多いので、貴重な作品や思わぬ方の作品にも出合えますから、山梨の文芸に興味のある方にはもちろんですが、お知り合いや親族の作品もあろうかと思いますので、どうぞ時間を確保してお越しいただき、手に取ってじっくり検索や読書をお楽しみください。

 

 最後に同人「中央線」社の社規の発行趣旨を転載します。

 

 「我々は郷土の文化を愛しこれを広く紹介し、その発展につとめんとす。また文化一般について研究し、創作活動を通して、文化の向上に寄与せんとするものである。この趣旨目的の為に、研究会等を開催し、同人誌「中央線」を発行する。」
 

郷土の文化に対し「発展につとめんとす」「向上に寄与せんとす」と、はっきりした目的と意志を示す「何々せむとす」=「ムトス」が、「中央線」に参加した方々の共通したベクトルだったことを物語っています。

2017年3月1日水曜日

杉浦醫院四方山話―498『丸山蔵書・地平文庫誕生!』

  この度、故丸山太一氏のご遺族から、生前太一氏が収集し、研究してきた木喰上人、微笑仏関係の図書と研究資料の全てを当館にご寄贈いただきました。この中には、日本の仏像や歴史についての図書も多く、木喰上人を大きな歴史の中で捉えようとした丸山氏の思いが伝わります。


 生前からご寄贈いただいた分も含め、これだけまとまった木喰上人関係の資料がご覧いただけるのは、当館が初めてだろうと自負できる内容です。これは、散在させずに全てをまとめてご寄贈くださったご遺族の方々のご高配によりますから、あらためて敬意と感謝を申し上げます。 これも杉浦家と丸山家が「長年、親戚以上のおつきあいをしてきた(純子さんの言葉)」賜物ですから「ローマは一日にして成らず」の重みを感じます。

 

 丸山太一氏は、住いの甲府銀座の仲間たちと「ギンザフォトクラブ」を立ち上げてカメラに「入れあげ」たお話も伺いましたが、後に、総合同人誌「中央線」の誌友となり、「甲州風土記」のコーナーに「木喰仏私観」を連載するなど県内の文化活動には欠かせない存在でした。晩年は陶芸も始め木箱に入った幾つかの作品も見せていただきました。

 

 木喰の「微笑みて 微笑む人に 春の風」の句を好んだのでしょう、色紙や短冊に自ら筆をとり落款と共に「地平書」と記した短冊を頂戴しましたが、太一氏は自分の名前が「大地」の音と同じことから「地平」の名を号としていました。号も現代では、俳句や日本画などを除いては「ペンネーム」と呼ばれ、あまり使用されなくなりましたが、陶芸の木箱にも「地平作」とありますから、丸山さんは、木喰研究には本名の「丸山太一」を使い、趣味の書や陶芸には「地平」を使っていたことが分かります。


  一冊一冊に「丸山蔵書」の角印もありますし、新たな分野を切り拓いたり、先駆者となることを「地平を開く」と云いますから、この寄贈図書の総称を「地平文庫」と命名し、広く活用を図っていこうと思います。

 

 この「地平文庫」は、上記の木喰上人・微笑仏関係の図書と研究資料がメインですが、郷土作家の単行本と総合同人誌「中央線」のバックナンバーが揃っているのも貴重です。

順次、収蔵図書も紹介していきますが、閲覧のみならず貸し出しも可能ですから、ご利用ください。

2017年2月23日木曜日

杉浦醫院四方山話―497『秘密基地 或は ヨシマ大学』

  気温も高く春めいて来た日曜日の午後、子どもたちの声が飛び交うので、庭に出てみると兄弟とお友達と云った取り合わせの子ども達とお母さんの姿がありました。
池で、ザリガニ釣りを始めるのかなと思いましたが、お母さんも一緒なので声掛けはしませんでした。来館者の案内中も時折元気な子どもの歓声が聞こえ、来館者からも「子どもは元気でいいですね」と自然な会話になりました。

 
 金正男(キム・ジョンナム)氏「暗殺」事件で「秘密」とか「暗号」と云った謎めいた言葉が現実性を持ったのでしょうか?今朝、来てみると杉浦医院庭園外の死角に「秘密基地」が建設?されていました。

杉浦医院板塀と敷地外樹木の死角にブルーシートの屋根が・・

  大人もツリーハウスなど木の上に隠れ家を欲しがるわけですから、子どもの秘密基地は、洋の東西を問わず憧れの空間でしょう。名作「トムソーヤの冒険」では、基地は洞窟の中でしたが、「秘密基地」の第一条件は、簡単に見つからい、仲間だけの「秘密」の場所でなければ意味もありません。

 

 杉浦医院の南にある現在の「昭和浄水場」から西一帯は、6、70年前は「ヨシマ」と呼ばれた葦の生い茂る湿地帯だったそうです。伸びた葦は大人の背丈以上になり、秘密基地建設の格好の場所でした。

朝、家は出ても学校には行かず、直接「基地」に登校する子どももいて、親や教師が探しても基地にはたどり着けないよう精巧な迷路も作られていたそうです。その秘密基地に登校していた子ども達は、大人になると「ヨシマ大学卒」として通っていました。                     

  こういう秘密基地の建設や運営には、必ず信頼を集めるリーダーが必要で、指揮を執ったドンは、後に青年団とか消防団の団長になったり、議員や町長など村や町のリーダーとなり、「あいつは、ヨシマ大学でも大学院まで出ているから・・・」と一目置かれていました。やはり子どもの頃から統率力があったということでしょう。   

 

 このようにヨシマ大学卒業生にとっては、秘密基地は学校以上のことが学べた「私の大学」だったわけで、「私の大学」は仕事だったり、映画だったり、恋愛だったりと人それぞれでしょう。管理の行き届いた現代の子ども達には「夢のような時代と社会だ」と羨ましくもあるでしょうが、そこには「自由」と「危険」が表裏一体だったことも確かです。

 

 材木屋さんの倉庫に潜り込み、秘密基地を造って遊んでいた兄弟が、林立していた丸太が倒れ、下敷きになって命を落としたと云ったニュースもありました。

昭和町のヨシマも湿地帯でしたから、ミヤイリガイにも絶好な生息地でした。秘密基地に登校した子ども達は、近寄らなかった「お利口さん」より地方病に罹った確率は大きかったことでしょう。まあ、悲惨な結果をもたらすかもしれないけどたまらない魅力がそこにはあるのが「秘密」の誘惑で、子どもに限ったことではありませんね。

持ち寄った木片などには暗号も書かれていますが、初心者の秘密基地ですね。

 さあ、4日経ったこの秘密基地、いつまで?どのように発展するのか?消滅をするのか?しばらく見守っていこうと思います。

2017年2月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―496『手塚治虫を育てた丸山昭氏』

  2月9日の新聞各紙には、漫画編集者・丸山昭氏の訃報を伝える記事が載っていました。

例えば、山日新聞では下記の通りですが、他紙と違うのは小見出しに「甲府出身」の一行が入っていることでしょう。

クリックしていただくと判読できます。
 

 丸山昭氏は、当ブログのラベルの一つにもなっている木喰上人や微笑仏の研究家の故丸山太一氏の弟さんです。

丸山太一氏からも生前、弟の昭氏の話を伺いましたが、講談社の編集者だった昭氏ですから、著作権にも精通していて、太一氏の木喰仏研究論文をつなぎ合わせたような本をI氏が出版した時は、「弟からもこれはひど過ぎるので訴えるべきだ」と忠告されたと云う話を覚えています。

木喰の「まーるく丸くまん丸く」を地で行くような太一氏でしたから、訴えることもしなかったようですが、一時代前の著作権意識は現在とは違っていたのも確かでしょう。

 

 丸山昭氏は、甲府中学から学習院大学で哲学を専攻し講談社に入社、手塚治虫作品を多数世に出した編集者として著名ですが、伝説にもなっている江古田のアパート「トキワ荘」の赤塚不二夫や石ノ森章太郎、藤子不二雄、水野英子など無名だった漫画家を発掘した編集者として、NHKの記録映像にもなって放映されました。詳細は「丸山 昭さん|証言|NHK 戦後史証言アーカイブス」を参照ください。

 

 この証言の中で、私が興味を持ったのは、丸山さんら漫画編集者と手塚治虫を始めとする漫画家の努力と力量で、昭和30年代に入ると大漫画ブームが起こった時の証言です。

漫画ブームの到来で、いわゆる児童文学書が売れなくなったことも手伝って、漫画=悪書として「悪書追放運動」が盛んになりました。

「漫画を読むとバカになる」と云った一面的な評価は、校庭に漫画を持ち寄って焼く「焚書」騒ぎとなって全国に広がる程でした。

丸山さんは、その時代を振り返って、

「その時の異常というのはもう大変、もうまるで魔女刈りですね、もう論理も何もないんですよ。「漫画だからいけない」って。漫画の何がいけないんじゃなくてその漫画という表現形式が子どものためにはならないということで。それで「三ない運動」なんていうのが始まって「売らない・買わない・読ませない」かなんか「三ない運動」なんていうのが全国に広まって・・」と証言しています。

 

 そういえば、 昭和50年代にも高校生には「バイクの免許を取らせない」「バイクに乗せない」「バイクを買わせない」という「三ない運動」が起こりました。確か高等学校のPTA連合会の大会で決議され、全国に広がった運動でした。面白かったのは、「三ない運動」にプラスされ「親は子どもの要求に負けない」と云った「三ないプラス壱運動」なんて進化を競うような運動になったことでした。

 

 学校図書館にもマンガが置かれる現代からするとバカげた話ですが、丸山さんや手塚治虫など当事者には大変な受難の時代でもあったことが分かります。こういう中で、手塚治虫がとったスタンスが「いかにも大人だな」と感心させられました。

それは、「漫画・おやつ論」だったそうです。主食だけでは人は育たないから「おやつ」がある。教科書や児童文学は主食、漫画はおやつとして子どもには必要だとする反論だったそうです。

 

 そんな時代から、「漫画」は、片仮名で「マンガ」表記になり、現在では日本発の文化として世界に広がり、ローマ字の「MANGA」が共通語になっています。

 

 漫画やバイクなどのたどった歴史は、現在を生きる私たちに幾つもの教訓を残していることを哲学専攻の丸山昭氏の人生が教えてくれます。

甲府生まれの甲州人が世界に漫画文化を浸透させた先駆者であったことを誇ると同時に丸山太一・昭兄弟は、微笑仏と漫画と云う当時は未だ評価の定まらなかったジャンルを対象に生涯をかけて、信念で研究と発掘に努めた人生であることが分かります。

「カッコいい」とか「ダンディー」とは、こういう人を形容する言葉だと思わずにはいられません。

2017年2月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―495『マイナスネジ・プラスネジ』

 来館した見学者を案内していると見学者の視点や興味から、教えられることも多いのが、この仕事の面白さでもあります。

過日、ご夫妻でお見えになったご主人は、大変な「物識り」で、展示品ごとに色々ご教示いただきましたが、今回はネジについて紹介します。

 

 当ブログでも何度か紹介してきた応接室のピアノを案内した折「そうだね。これは歴史的なピアノだ。全てマイナスネジだもん」とピアノに使われているネジに着目しました。

「戦前のモノはすべてこのようにマイナスネジです。日本でプラスネジが使われるようになったのは戦後で、ホンダの創始者・本田宗一郎がヨーロッパから持ち帰って広まったっていう話だね」と。

「それでは」と、昭和4年建築の当館の建具や家具等のネジを確認すると御覧のように全てマイナスネジでした。

 

「長崎のグラバー邸の修復工事はひどいね。グラバー邸は日本最古の木造洋風づくりでしょう、ネジは使ってもマイナスじゃなければダメなのにプラスネジで修復されてるんだもの話にならんよね」とのご高説も。

お説の通り、村松貞次郎著『無ねじ文化史』によると、「江戸時代の工業製品にはネジの使用例はなく、江戸時代とは「ネジ無し文化」の時代である」とありますから、江戸末期に作られたグラバー邸にネジが使われ、ましてプラスネジとは「話にならん」ですね。


 要は、ネジを製作するには、優れた工作機械が必要だった訳で、ネジを作るという事が江戸時代はできなかったからこそ、ネジや金物を必要としない「木組み」等の工法も発達したのでしょう。


 プラスネジは、1935年(昭和10年)にアメリカの技術者ヘンリー・フィリップスによって発明されたそうです。この発明もマイナスネジはドライバーが滑ったり、ネジの溝が潰れたりして、そのたびに腹を立てた彼が「なんとかならないか」と考えた結果だそうですから、「必要は発明の母」は万国共通ですね。

 

 自称「アンティーク家具」なども使われているネジ一つで真贋がバレそうですが、こういう物識り家は、「目利き」でもあるわけです。

 腕時計は、まだマイナスネジしかなかった1920年代に誕生しましたから、ヨーロッパを中心とした歴史的な高級腕時計は、全てマイナスネジで職人たちのハンドメイドだったそうです。

そこからマイナスネジは高級腕時計の証となり、現在にも引き継がれていますから高級感を演出したり、アンティークなデザインにはマイナスネジは欠かせないネジですが、締めの強度や使い勝手の良さから、現代ではプラスネジが主流となっているようです。

2017年2月6日月曜日

杉浦醫院四方山話―494『ピアハウスしょうわ』

 今日の朝日新聞山梨版の「会いたい」のコーナーに「ピアハウスしょうわ」の運営に尽力している永島聰さんが紹介されていました。

旧西条交番の建物をいわゆる「ひきこもり」の方々のフリースペースとして利用して、交流と社会参加を促すよう図っていますが、永島氏個人による永続的な運営には無理もあり、その辺の悩みも紹介されていました。旧交番がひきこもり支援スペースと云うのも面白いのですが、交番は文字通り2~3人が一組で24時間交代で番にあたる所でしょうから、「ピアハウスしょうわ」もこれにならって利用者の交代制による運営も視野に入れていく必要もあるようです。


 

 永島聰さんは、数年前の山日新聞のシリーズ記事にも「元ひきこもり」として実名で登場しましたが、今回の朝日新聞でも自らのひきこもり歴を語って、ひきこもり当事者としての経験や思いを運営に生かしているそうです。

とかく日時を指定しての交流会が多い中、常時来たい時利用できる風通しの良さは、利用者には好評でしょうし、行き場に苦しむ方には得難いスペースでしょう。ひきこもりに限らず「当事者主義」と云う言葉や考え方も一般的になりつつありますが、永島氏のように具体的な実践活動に取り組む方は未だ少ないのが実態です。

 

 「当事者主義」では、例えば、高齢者やしょう害者のケースでもケアが中心になり、必ず「する人」と「される人」と云う相互関係が生じます。当然、「ハッピーな介護者でなければハッピーな介護はできない」と云う課題も生じ、より良いケアには、相互に高い意識と覚悟が求められたからこそ永島氏のように困難に直面する中で試行錯誤を余儀なくされてくるのでしょう。


 一層進むといわれる高齢化社会では、誰もが「ケアを受ける」時が訪れます。ケアするのは妻や夫、嫁など家族が前提だった時代から介護保険制度の導入で社会が看る時代に移行する中で、高齢者でなくてもしょう害者や不登校、ひきこもりなど様々な弱者もケアが必要になります。

 

 永島氏の指摘のように、このケアを「地域や社会も共に担っていく」ことが住みよい地域、町づくりには欠かせなくなっています。

「ピアハウスしょうわ」は、町福祉課と協働してオープンしましたから、昭和町の福祉施策の具体化でもあります。永島氏と利用者の当事者主義を尊重し、運営には口出ししないスタンスが町内外に利用者が広がっているのでしょう。


 当館庭園を「癒しの空間」として利用されている方もいます。当館から徒歩圏内にある「ピアハウスしょうわ」の利用者や永島氏に地域として何が出来るのか共に考えていく必要を示唆した記事でした。

2017年1月19日木曜日

杉浦醫院四方山話―493『やまなしレトロモダン』

  YBSテレビ(山梨放送)が、毎週火曜日に「やまなしレトロモダン」と云う番組を放映しています。これは、県内の歴史的建造物が次々姿を消していく中で、現在ある建造物を映像で残していこうという番組です。

 同時に旧杉浦醫院を保存して町の郷土資料館として活用しているようにレトロ・モダンな建造物は、地域の貴重な資産、資源でもあります。若い世代からも古民家が見直され、新たな息吹を取り込んで再生されている事例も聞きます。

 

 このシリーズの何回目になるのか、2月7日(火)夜9時54分から放送予定の「やまなしレトロモダン」で、杉浦醫院が紹介されます。短時間の番組ですが、建築物に絞った内容ですから当館内の建造物が細部にわたって紹介されるものと思います。

特に、過日行われた撮影では、ドローンを飛ばして上空からの撮影も行われましたので、鳥の視点で、国の登録有形文化財に指定されている五件の建造物全体を俯瞰できるのは楽しみです。

 

 もう一つ、この番組のナレーションは、YBSのアナウンサーではなく心理カウンセラーとして県内でご活躍の川辺修作氏が担当しているようです。

川辺氏は、学校カウンセラーや子育て支援活動でお馴染みですが、昨年当館で開催した「古典話芸を愉しむ教室」の紫紺亭圓夢氏等と共に山梨落語研究会のメンバーとして落語を子どもたちに教えたりのボランティア活動も行っています。東京墨田区の出身なのでしょう墨亭河童( ぼくてい かっぱ)の名前で、高座にも登場していますから、レトロ・モダンな建造物のナレーションにも味わいを添えてくれることでしょう。


2017年1月12日木曜日

杉浦醫院四方山話―492『元気もありがとう!ふるさと納税』

  納税者が自分の選択した自治体にお金を寄付することで、税負担が軽くなり、その自治体の特産品などが返礼として受けられる「ふるさと納税」が、ブームにもなっています。

 特に都会の納税者の意識を地方に向けることが出来たり、納付先の選択は納税者にあることなど税の意識化に寄与する制度だったことから、利用者も全国に広がったのでしょう。年々寄付金総額が増えると、総務省は上限額を2倍にしたり、確定申告の免除など制度改革を行い、より使い勝手を良くして利用者の増加を図っています。


 「ふるさと納税」のキャッチフレーズは、「ふるさと納税で 日本を元気に!」です。近々では、糸魚川市の大きな火災被害に対し、全国の心ある方々からこの制度を使った支援が寄せられ、復興を目指す糸魚川市民を元気にしていることでしょう。

 

 その半面、「自治体サービスの対価と云う税金本来の位置づけがあいまいになる」とか「返礼品目当てで、利用者の損得に頼る制度は逸脱している」との指摘も広がって、この制度に取り組む自治体の姿勢にも温度差があります。


 昭和町は、ふるさと納税に積極的かと云うと、「広報しょうわ」新年号の町長や議長の年頭所感でも一言も触れていませんから、本町への「ふるさと納税」は、故郷を離れている昭和町出身者が「ふるさとに・・・」と云う自然な寄付が主なのでしょう。

特に豪華で話題性のある返礼品を用意してまで「ふるさと納税」額を増やしたいと云う施策も採っていないのは真っ当ですから、それで良いのでしょう。

 

 そんな中で、今回うれしい「ふるさと納税」があったことを総務課からの連絡で知りました。

都内在住の20代女性から「昭和町の文化財保護」に使い道を指定した寄付が寄せられたという知らせです。

 添えられた町に対する「応援メッセージ」は、町民に寄せられた応援でもありますし、端的にして格調高い文章を勝手に要約するのは失礼の極みですから、全文を掲載させていただきます。


「先日、甲府へ旅行をした際に、この地にあった地方病というものを知り、杉浦醫院を訪れました。当時のまま保存されている医院は、100年以上にわたる闘病の歴史の重さを伝える迫力があります。地方病との闘いは、日本の近代化を語るうえで外してはならないものだと感じました。

また、事務局の方にとても丁寧に説明をいただき、地方病への理解を深めることができました。

少しでも地方病に関する文化施設、資料の保存に役立てていただければ幸いです」


 町の郷土資料館が、「ご縁」となり「ふるさと納税」 に繋がったと云う事例も珍しいかと思いますが、「実物」だけが持つ発信力にこだわった杉浦醫院の存在と展示を評価いただいた上で、ともすれば地方病にマイナスイメージを抱く県民も多い中、この闘いの歴史的位置づけにまで言及された応援メッセージは、県立博物館構想委員長だった歴史家・網野善彦氏の視点とも重なるものと拝読いたしました。

 

 東京の方が、山梨の小さな町に「ふるさと納税」いただいた今回のケースは、巷で話題の「返礼品」とか「ポイント」付加などと云った次元と一線を画した、本来の趣旨にのっとった本当の意味の「ふるさと納税」と言えるのではないでしょうか。


 お寄せいただいたご声援をご期待と受け止め、一層励んでいこうと「杉浦醫院は元気をいただきました!」と御礼申し上げます。

合わせて、応援メッセージを全文掲載させていただきました事にご理解を賜りますようお願い申し上げます。

PS:当ブログ公開後、総務課から「応援メッセージを精査したら、もう一件杉浦醫院を見学した東京都の男性から地方病関連に役立てて欲しいと、ふるさと納税がありました」と追加連絡が入りました。重ね重ね、誠にありがとうございました。

2017年1月10日火曜日

杉浦醫院四方山話―491『新カレンダーで・・・』

 当館のフルオープンに向けた工事は、3年前に終了しましたが、トイレの新築と土蔵と納屋、車庫の改修補強工事を請け負った昭和町の(株) S 建設さんが、毎年新しいカレンダーを届けてくれます。建設会社のカレンダーですから高級和風住宅の写真がメインのカレンダーです。


 写真左下にその月の写真の説明がキャッチフレーズと共に記されています。1月はご覧の写真に「スリッパをはかない生活のすすめ」とコピーがあり、この家のコンセプトが続いています。この写真は、杉浦家母屋の玄関からの景色と重なります。

 

 ちなみに、「スリッパ」の発祥は日本だと云いいます。長い鎖国の時代から幕末、明治にかけ欧米の外国人が日本に来るようになり靴を履きかえて家に入ってもらうため考案されたのがスリッパで、スリップ=すべるように履ける履物がスリッパの語源だそうです。


 日本の住宅も洋風化が進み、現代ではスリッパも多彩で好みに応じた必需品ですが、玄関から直ぐ畳にすることで、「スリッパをはかない生活」が出来ると云うのが今月の和風住宅の提案になっています。

足裏には沢山のセンサーがあって、普段からこれを刺激することが健康の秘訣でもあるから、スリッパを履かないで生活できる家は、健康住宅だと言う事でしょう。


 そう云えば、足裏を程よく刺激する為にスリッパではなくワラジを履いて診察している女医さんが昭和町に居ると云う話も聞いたことがあります。

また、靴下は履かずに素足の方が良いとか青竹踏みや足つぼマッサージなど確かに「足裏は第二の心臓」などとも言われていますから需要なのでしょう。

まあ、室内を歩くだけで健康になると、足つぼを刺激するイボイボ突起がある健康サンダルといったものまでありますから、ご提案の玄関から全て畳敷きの家も苦戦かな?と立派な和風住宅など夢のまた夢でしかない引かれ者の感想でした。

2017年1月4日水曜日

杉浦醫院四方山話―490『新年おめでとうございます』

新年あけましておめでとうございます

今年も橋戸さん手づくりの干支作品が受付で皆様をお待ちしています。

 そろそろ酉年を迎えるカウントダウンが・・と云う年末に「鳥インフルエンザ」発生のニュースが報じられ、動物園が休園になったり、多くの養鶏が殺処分されました。

 禽舎に一羽でも陽性の鶏が発生すれば、何千、何万と云う鶏が殺処分されていますから、誰もが処分される鶏を思わずにいられないことでしょう。

 

 「焼き鳥」のイメージから、殺処分も焼却かと思っていましたが、空気感染するインフルエンザは、燃え残ったウィルスが飛散することもあることから、埋めて処分しているようです。

完全な焼却炉のある所まで運ぶ過程で、ウイルスが撒き散らされて新たな感染を生んだこともあり、移動させず、その場に埋めるのが最善策となっているようです。

 

感染症が怖いのは、ウイルスは、どんどん変異を繰り返し、トリにだけ感染するのではなくヒトにも感染する変異の可能性もあるからでしょう。そういう意味で、現時点では、「殺処分は避けられない」が世界共通の対処法となっているようです。

酉年の年頭に「殺処分云々」で誠に申し訳ありませんが、「酉年」のトリは、まぎれもなく「鶏」ですから、避けては通れないかと・・・、これ以上の広がりが無いよう祈るばかりです。

 

話題を明るく変えましょう。「焼きトリ」と云えば「酒」ですね。

「酉」という字は、もとは果実を入れておく壺からきた象形文字で、その壺の中身が醗酵して、酒壺になったことから、これに水を表す「さんずい」を加えて「酒」の字も出来たそうで、酒より酉が先であることは明らかです。

 

ですから、酒飲みは、先ず焼き鳥を注文して、後から酒を頼む位の敬意を表さなければ酉に申し訳が立たないことになります。

酒に欠かせない「酢」「醤油」「味醂」から酒に付属する「お酌」「酔う」「醒める」にも「酉」が居ますから、今年は「酉」様に感謝申し上げながら「酩酊」することなく飲むようお互い気を付けましょう。

 
お口直しにカワイイ鶏をもう一枚