2016年6月29日水曜日

杉浦醫院四方山話―478 岡本夏木氏の『しつけ』論

  前話で数十年前聞いた講演会での記憶を頼りに「しつけ」と題した文章を書きました。そして、その講演者を「何とか調べてでも名前を確認して、その後の著書を探してみたいものです」と結びました。


  先日、0427局の方から「6月13日付けのしつけのブログを読みました。講演者のお名前は分かりましたか?」と電話がありました。「お恥ずかしい話ですが、今日現在未だ分からないんですが・・・」と答えると「京都大学哲学科を出た心理学者のオカモトナツキさんはご存知ですか?岩波新書の幼児期と云う本でしつけについて同じような事を書いていますから、多分オカモトナツキさんだと思います」とご丁寧にご教示いただきました。


 オカモトナツキさんは岡本夏木さんで、私も購読していた教育雑誌「ひと」にも執筆していましたから「ああ、岡本夏木氏の可能性は高いですね、ご親切にありがとうございます。」と頭を垂れました。

 

 そう云えば遠山啓氏が主宰していた教育雑誌「ひと」もすっかり聞かなくなりました.確か1970年代中ごろの創刊だったのでもう40年も前になり、「十年ひと昔」と云いますから大昔ですが、遠山氏の「水道方式」による算数・数学の授業は全国に広がり、読者の集いと云った「ひと塾」もよく開かれました。私は世田谷で開かれた「ひと塾」で、岡本夏木氏の話を聞いたのかもしれません。

 

 岩波新書刊・岡本夏木著「幼児期」から該当する文書を転載致します。

『「しつけ」ということばに、よく「躾」という漢字があてられ、自分の身を美しくするという意味で大変いい字だと好んで使う人も少なくないようです。しかし「しつけ」という語は元来、着物を「仕付ける」ことと結びついて、私たち日本人の生活の中に根をおろして来ました。躾という字が示唆する「礼儀作法」も、しつけの重要な側面ではありますが、着物の「しつけ」が担っている意味の方が、しつけの過程の本質をよりよく表わしていると私は思います。着物を縫う時、あらかじめ形を整えるために仮に縫い付けておくのがしつけですが、大切なことは、いよいよ着物が縫い上がると、しつけの糸ははずす、ということです。しつけの糸はもはや不要であり、それが残っていることはおかしくなります。この「はずす」ことが、子どもの発達にとっても重要な意味をもつのです。』

 

 

  遠山氏は、「教育学者や教師だけが難しい言葉で教育を語る」という、それまでの教育雑誌と教育界のあり方を批判し、「お母さんや子どもたち、そして、教育学者や教師が、それぞれ平等な立場で〈教育〉について考える教育雑誌をつくりたい」と、『ひと』を創刊しましたから、岡本氏の視点も遠山氏に重なるものがあったのでしょう。

つまり、しつけも、教師や親があれこれ細かく指示することではなく、「はずす」ことを前提に枠組みを提示して、子どもが内面の葛藤を通して獲得していくものという理念を提示しています。

 
 

 岡本氏の著書を求め、じっくり読んでみようと思いますが、前後して『ひと』に対抗するように向山洋一が提唱した「教育技術法則化」運動が、多くの教員の授業技術改善、向上に資すると席巻しましたが、これは授業のハウツー化、マニュアル化でしたから「十年ひと昔」で、消費され同パターンの授業が溢れると水泡のように消え去ったように思います。まあ、その程度の内容しか構築できなかったのでしょうが、現在も衣を「TOSS」と変えて継続しているようですから目先の授業に悩む教員の需要はあるのでしょう。

 

 個人的には、「教育技術法則化」運動が、子どもの自主性、主体性などの「本質論」を避け、画一的指導による音楽や図工作品のコンクール入賞を競い助長してきた影は消えない反面、教育雑誌「ひと」の理念や哲学は脈々と継承されているように私は思います。

 
 

 拙いブログを読んでいただいた上にわざわざ「オカモトナツキさんでは?」とご教示いただいたことで、雑誌「ひと」の時代なども思い起こすことが出来ました。お名前もご住所も聞き損じた失礼もこの場を借りてお詫び申し上げ、重ね重ねありがとうございました。