2016年6月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―477 『しつけ』

 北海道の山中に「しつけ」の為に置き去りにされた男の子が、7日ぶりに無事見つかったニュースもホトボリがさめた感じで、親が子どもを「しつけ」ることについても話題になりましたが、これもウヤムヤで・・・

 大騒ぎの末に何も無かったように新たな話題・ニュースが繰り返される度に、その昔、長谷川きよしが唄った「たとえば男はアホウ鳥 たとえば女は忘れ貝」と云ったフレーズが自然に思い起こされ、哀愁とも虚無とも違った暗い感情になるのは、歳のせいでしょうか?

 

 そんな訳で、今回のニュースについての忘備録として2,3書き留めて、せめてもの抵抗としたいと思います。

 

 このニュースを聞いた時、私は、名前は忘れましたが某哲学者からもう40年近く前に聴いた「しつけ」と「仕込み」についての話を思い出しました。名前は忘れたのに語った内容を覚えているのは、私にはそれなりに納得のいく話だったからでしょう。

 

 彼は、講演会の中で「しつけ」は、元々は裁縫用語で、本縫いの前に、布と布がずれないように、しつけ糸で縫い止めることだと云い、これがいつの間にか家庭や学校で大人の価値観を子どもに押し付ける当たり前の勤めのように使われていることが問題だと切り出しました。

 

 そして、「しつけ」は、独立してあるのではなく「しつけ」る前段階が大切だと説き、これを「仕込み」と区分しました。

「しつけ」は漢字表記では「躾」と書くように「美しい身」にすることなのにしつける親や教師が「美しい身」を体現しているかが先ず問われることを自覚する必要あるという訳です。

具体的に「グチャグチャ」と云う形容詞を使い「皆さんの家庭はどうですか?家の中はグチャグチャ。夫婦関係もグチャグチャ。親子の主従関係もグチャグチャ。そんな中で幾ら躾だけ厳しくしても美しい身になる訳ありません」と。


 要は、しつける側が「美しい身」であることが第一の「仕込み」であり、そういう環境下では、物心つく年齢になると子どもも自然に「こうしよう」とか「ああしよう」と云う気持ちになるのだと説き、これを「仕向け」と区分しました。

このように子ども自身を能動的な気持ちにさせる「仕向け」も「仕込み」で、そういう前段階があれば、親や教師が「しつけ」たい内容がスーと入っていき客観的にも美しい振る舞いになっていくのに「仕込み」を手抜きして、一方的に大人が「しつけ」と称して命令しているのが現在の「しつけ」の実態だと云った話でした。 


 今回のニュースや「児童虐待」と云った言葉も40年前より一般化して、日常茶飯事のように耳にする社会になりました。それは、決して成熟社会とか社会進歩とは無縁な社会のグローバル化、競争化、階層化、IT化等の産物で、この40年で、家庭のグチャグチャは社会のグチャグチャに及んだようにも思います。あの老哲学者は、現代社会を見越しての警鐘だったのか?

何とか調べてでも名前を確認して、その後の著書を探してみたいものです。


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 西条小学校の4年生が団体見学に来た際、館内や庭園に消しゴムと鉛筆数本が落し物として残り保管しました。その日の夕方、一組の親子が来館し「この子が今日鉛筆を失くしましたが、学校には無かったので、今日見学に来たこちらで落としたのかも?と伺いました」とお母さん。

「今日は楽しかったけど鉛筆がなくなって」と意欲的に見て廻っているのが印象的だった女の子。「自分の持ち物は鉛筆一本でもしっかり管理させるようにしてきましたから、お騒がせしますが・・・」とお母さん。

「ハイハイ、鉛筆の落としモノありましたよ。確認してください」と見せると満面の笑みで「あった-よかった」と。

しっかり「仕込み」が出来ている上での「しつけ」を目の当たりに出来たのが当原稿の動機となりました。