2015年6月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―425『杉浦 譲と杉浦家』

 過日、甲府市相生にお住いの丸山善仁氏が「杉浦譲とこの杉浦醫院の関係についてお話ししたい」と来館されました。

 丸山氏は、持参された資料を取り出して「杉浦醫院は杉浦譲の分家にあたる家系ですが、その辺は聞いていますか?」と問われました。

「以前、県の方からも聞かれたので、健造先生の頌徳誌でも調べましたが、杉浦譲の記述はありませんでしたし、三郎先生の長女で、謙遜家の純子さんにも尋ねてみましたが、うちの関係にそんな立派な方はいないと思いますよ、という話で、はっきりした関係は分かりませんでした」と、対応しました。


 さて、「杉浦譲とは?」を説明しないと分からない甲州人も多いことでしょう。

 昭和も遠くなりましたから、江戸時代に生まれた明治の人となると大昔と云った感じでしょうか。詳細は、杉浦譲 - Wikipediaをご覧いただくとして、一言で紹介するとしたら「幕末から明治にかけて青雲の志を抱いて甲府から東京に出た杉浦譲は、日本に近代郵便制度を確立した実質的な生みの親」と云った所でしょうか。



 山梨県が、県指定有形文化財である旧山梨県庁舎別館に開設した「山梨近代人物館」の50人の中にも杉浦譲は選定されていますから、近代日本の礎をつくった山梨県人としての功績によるものでしょう。


 

 丸山氏がお住いの相生1丁目の旧名は「二十人町」で、歴史的には徳川幕府甲府勤番の同心二十人の組屋敷が置かれていた所です。

 丸山氏は、県庁在職中から地域の歴史を学び、同じ二十人町出身の杉浦譲について研究を重ね、関連する参考文献も書蔵して、「新時代を役人として駆け抜けた俊才・杉浦譲」という著書も発表している杉浦譲の研究家で、県立博物館にも資料を提供してきたそうです。

 
 

 全5巻の「杉浦譲全集」を読み込み、日記のなかに「譲の父・杉浦七郎右衛門の分家が西条新田の医師・杉浦健造」である旨、記述されているのを発見したそうで、その全集も持参され、付箋のページを開くと上記に繋がる内容の記述が確かにありました。

 
 

 丸山氏は、杉浦譲と生前交友のあった大久保利通、岩倉具視、渋沢栄一などの政財界人から樋口一葉など文化人との関係など細かく調べ「杉浦譲年譜」等々にまとめてありました。上の写真資料も丸山氏がまとめた系図にある杉浦健造と杉浦譲の関係を示すものです。

 
 

 杉浦醫院の家系は、健造先生の頌徳碑建立時にまとめられた「頌徳誌」にありますが、「杉浦譲」との姻戚関係については記されていません。

 実子に拘らず養子を入れてのより優秀な世継ぎが一般的だったのが医者の家系の特徴ですから、杉浦醫院も江戸時代初期から三郎先生まで9代続いた医者の家系には養子縁組も多く、今回の丸山氏の資料から杉浦譲系の分家から杉浦醫院へ養子で入った可能性も高く、正確なところは、頌徳誌とも重ね合わせた緻密な突合せが必要になりますが、純子さんを筆頭に過去をあまり詮索しないのも杉浦醫院の家風のようにも感じます。