2015年6月3日水曜日

杉浦醫院四方山話―424『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー3』

 林正高先生からご教示いただいた大岡昇平氏の「レイテ戦記」刊行後の「補遺」について、私見を交えて紹介してきましたが、林先生の指摘を古守豊甫氏を介して大岡氏に伝えた作家・井伏鱒二についての貴重な記述がありますから、ご紹介します。


 山梨県立文学館にも井伏鱒二の展示コーナーがあるように井伏鱒二にとって山梨は「第二の故郷」とも云えるのでしょう。

例えば、どちらかと云えば太宰治で有名な御坂峠の「天下茶屋」も基は井伏鱒二の定宿でしたし、戦争中は旧東八代郡甲運村 (現・甲府市和戸町)に疎開して、「甲運亭」の鰻を全国区にしましたが、この時のかかり付け医が古守豊甫氏だったのでしょう。

 また、筆名を「鱒二」とした程の釣り好きですから、山梨では俳人・飯田蛇笏と連れ立っての富士川はじめ山梨でのアユ釣り、ヤマメ釣りのエピソードは、多くの作品にも結実しています。

 

 まあ、「人生即別離」の漢詩を「さよならだけが人生だ」と訳した井伏氏には「山梨より甲州がよく似合う」と云った感じですが、井伏氏の郷里は、片山病と呼ばれた日本住血吸虫病の有病地帯でもあった広島県福山市でしたから、大岡昇平氏の「補遺」にも以下のように記されています。


≪井伏さんは片山病について、随筆風に五枚を書いて下さった。片山病の由来から、甲運病(現在、この地名は消滅し、石和市内の小学校名にしか残っていない。山梨病という)に及ぶ。ー中略ー

井伏さんは昭和19年5月から20年7月まで甲運村に疎開していた。よくよく日虫病に縁があったのである。-中略-

なお井伏氏の随筆は例の如き名文で、私はこの夏、甲府に行ってその報告を書くから、それまでにどこかへ発表してくれ、と頼んだが、氏にはその気はまったくないという。私だけのために書いてくれたのだ。だから私も氏の文章を引用しないわけだが、当節金を貰わずには一字も書かないコピーライター的文士の輩出の中で、風雅な文人気質の例として、感謝をこめて特記しておきたい。



   ここに出てくる「片山病」は「片山貝」と共に周知されていますが、「山梨病」「甲運病」は初見ですが「地方病」と同義であることは分かりますから、林先生も特段「誤記」とはしなかったのでしょう、訂正は入っていません。



 赤字で表示した部分に作家・井伏鱒二の真骨頂が目に浮かぶようですが、これに大岡昇平も「私だけのために書いてくれたのだ。だから私も氏の文章を引用しない」と応える「文人気質」は、「当節」あまりお目にかかれない物書きの哲学が清々しく滲み出ていて、文士の魂の交友を教えられました。

 

 それにしても大岡氏をして「井伏氏の随筆は例の如き名文で・・・」と言わしめた井伏氏の日本住血吸虫病の随筆を是非読んでみたいものですが、井伏氏が発表しなかった以上、大岡昇平全集にも収録されていないでしょうから、「補遺」で明らかにされた井伏鱒二の「幻の随筆」ということになります。



 大岡氏は引用はしなかったものの甲府への取材前に読んだ井伏氏からの五枚の随筆風私信に影響されたのでしょうか、「補遺」も全体的に随筆風で、刊行された「レイテ戦記」の記載もれを後から補い加えると云う意味では、日本住血吸虫病についての具体的な漏れが何で、どう補って何処に追加されるべきかは曖昧で、私でさえ物足りなさを感じます。

 しかし、補遺執筆のために林・小守両医師を甲府に訪ねた大岡氏の見聞や感じたこと考え方は、井伏氏の一文でもお分かりのように一貫していますから、文学のジャンルでもある随筆風になっているのも矢張り文学者なのでしょう。そういう意味では、詠み易くもあり楽しめた「補遺」でした。