2014年9月10日水曜日

杉浦醫院四方山話―361『塚原 等 氏-2』

 前話では、山梨訓盲院を設立し、校長として、学校運営の先頭に立った塚原等氏が、資金調達為の東京で、志半ばで帰らぬ人となったことをお伝えしましたが、その志は、息子の塚原馨氏にしっかり引き継がれました。

 

 塚原等氏について、「昭和村誌」には「昭和村西条4319番地に安政3年(1856年)1月13日に生まれ、本名を塚原等という」と記載され、「明治7年山梨日日新聞記者として入社し、梅の家馨の号で俳諧和歌を発表し、後に梅の家三菊と改め文芸を通して庶民の啓蒙に尽くした」旨が紹介され、「45年の長きにわたり県内文芸界の指導者として活躍した」と、村の文人として取り上げられています。

 「大正8年不具な青少年の教育に思いを致し、甲府市百石町に山梨盲唖学校を創立し自ら校長となり、特殊児教育のために尽くし、大正11年2月1日享年69歳で歿した」とありますから、「やまなし近代人物館」の選定功績でもある「県内初めての盲学校である山梨訓盲院を設立した功績」は、塚原等氏の晩年4年間の実績であり、その多くは、文芸活動に注がれていたことが村誌からはうかがえます。


 村誌には、「学校は、嗣子馨が遺志を継いで経営し、成果を収めたので、昭和16年県の経営するところとなり」、現在の山梨県立盲学校、山梨県立聾学校に至っている記述もありますが、この塚原馨氏は、昭和17年7月に誕生した今の昭和町の母体となる昭和村の村長を昭和22年4月から23年8月まで務めていますから、戦後の地方自治の要として、昭和町の礎を築いたことになります。


 また、山梨県立ろう学校「開校二〇周年氏小史」には、「塚原等前校長の愛孫、現校長馨氏の子、塚原一氏は、東京盲唖学校師範部に入学し、卒業後は祖父、父の志を継ぐ予定であったが、入学して僅か3か月、急病のため25歳で亡くなられ、祖父、父と塚原家三代の苦節に、哀しき終止符が打たれた。」とあります。

西条の塚原家は、空き家状態になって久しいと聞いていますが、この一氏の急逝によるものか?引き続き調べていきたいと思います。


 山梨県の盲聾教育の先駆者として、母体となる山梨訓盲院、私立山梨盲唖学校を大正期から立ち上げてきた塚原父子が、この昭和町域から出ていることを誇るとともに、もっともっと周知していく必要もあるように思います。