2014年7月17日木曜日

杉浦醫院四方山話―352『曽根義順氏日記-1』

 昭和町西条の浄慶寺の先々代住職・曽根義順氏は、明治41年から昭和26年までの43年間、毎日欠かさず日記をつけていました。この24冊に及ぶ日記帖は、これまで浄慶寺の私設資料館に保存されていましたが、この度、現住職・曽根孝順氏が当館に寄贈くださいました。 

既に山梨日日新聞紙上でも紹介され、ご存知の方もあろうかと思いますが、明治、大正、昭和の激動の時代を昭和町西条地区に生まれ育って、僧職をしながら生活してきた一人の町民の視点で綴られた日記ですから、証言資料、歴史資料として貴重な寄贈品で、感謝申し上げます。



 孫にあたる曽根孝順氏は「祖父も他界してもう60年以上経つ訳で、今さら個人情報云々もありませんから、展示公開しても構いません」とおっしゃていましたので、全巻を一堂に展示しました。

 曽根義順氏は、1885年(明治18年)生まれで、残っている日記帳の最古は明治41年ですから、義順氏が23歳の時に書いたことになります。

その明治41年の日記を観て、23歳の1月1日から日記を書き出したのか?それ以前から書いていたのか?どうも後者のように思えてきました。

 

 それは、記されている内容が、一貫して「淡々」としているからです。

日記は、例えば「恋愛日記」や「失恋日記」など個人的な「思い」が日記に向かわせてきたとするのが洋の東西を問わず一般的です。23歳と云う若さで、今年から日記を付けていこうとしたのであれば、その辺の「心境の変化」なり「決意みたいなもの」が書かれているように思うのですが、12月31日までの1年間の日々の書き出しは、「起床后掃除例の如し」か「起床后勤行す」で、期待したような日記に対する若い思いは見受けられません。「掃除例の如し」の記述からも、もっと以前から書いていたように思えてなりませんが、これこそ「下衆の勘繰り」で、仏道を歩み若くして住職となった義順氏の23歳は、下衆には計り知れない奥深き23歳だったのかも知れません。毎日正確に記されている「起床」と「就寝」の時刻をみても起床4時前後、就寝9時前後と規則正しく、我が身の20代と重ねるとその辺も雲泥の差で、精神的にも肉体的にも悟りの境地に達していたのでしょう。

 

 明治41年の義順氏の日記帳も「東京 図書出版社発行」の「明治41年富用日記」であるように日本人は日記好きの国民で、日記帖専門の出版社が、多種多様の日記帖を販売するのが年末の恒例になっているのは、現代でも変わりません。それは、キリスト教の国と異なり、就寝前に神に祈るという習慣が無いことが大きな要因だとも言われてきましたが、義順氏の一日を振り返り記録するという営為の継続は、明日の考察と早朝の清掃、勧行に繋がる宗教的行為のようにも思えてきます。

 

 武田百合子の「富士日記」や田中康夫の「東京ぺログリ日記」、つげ義春の「つげ義春日記」など現代の日記は、読者を前提にしていて、覗き見趣向の読み物として楽しめますが、この46年間に及ぶ曽根義順氏の日記は、その辺は微塵も感じさせない記録に徹した内容であることが、具体的年月日の詳細を読み込むことで貴重な史料となって生きてきます。

 

 先ずは、昭和20年8月15日前後の日記を読み込んで、順次報告していきたいと思いますが、義順氏の日記は、啄木のローマ字日記同様他人に読まれないよう図ったのか、大変難解なくずし字で、簡単には判読出来ませんから、古文書解読にも相当する読み込みが私たちには要求され、どなたかお力添え願えませんか?と正直SOS状態です。