2014年7月7日月曜日

 杉浦醫院四方山話―349『増村保造監督特集』

 山梨県甲府市出身の映画監督・増村保造は、1986年(昭和61年)11月に62歳で亡くなりました。

 

年齢からするとまだ若く惜しまれますが、東京大学法学部で同級生だった三島由紀夫は、1975年(昭和45年)11月に45歳で自戒していますから、二人に共通した美意識は、老いて丸くなると云った馬齢を重ねるよりも強靭な創造欲を完全燃焼させて逝くことにあったのではないでしょうか。

煙草が付きものの増村保造の写真は、「紫煙文化」を体現しているようで、現在となっては貴重ですらあります。

 

 その増村保造監督のフィルム作品全57作をこの夏、京橋フィルムセンターと呼んでいた東京国立近代美術館フィルムセンターが、一挙に上映していることを知りました。

 

 増村保造は、大映の監督として看板女優だった若尾文子の美しさと魅力を最大限引き出した作品から友人の三島由紀夫を役者として徹底的にしごいて創った「からっかぜ野郎」など日本の近代映画史上欠かせない名監督として語り継がれてきましたが、その増村作品が陽の目を見る機会ですから、今年の夏休みが一挙に楽しくなりました。


 増村作品の面白さや斬新さについては、ネット上でも書籍でも読めますので、興味のある方は是非お読みいただくとして、極私的な「増村保造論」を記しておきたいと思います。


 映画作品は、監督と俳優の織り成す映像文化でもありますが、増村保造監督の作品は、その主演俳優の存在感と魅力で圧倒させる作品ばかりと云っても過言ではありません。これは、絵画のジャンルで云えば「浮世絵」と重なります。

  例えば、葛飾北斎はいかに富士を効果的に画面に取り入れ、どのように描くかを長い間研究して、「富嶽三十六景」を描いた浮世絵師ですが、北斎が書き溜めてきた富士のスケッチには、西洋画で用いられる遠近法を活用したり、モチーフである富士を画面いっぱいに描いたかと思えば、逆に遠景に配したりというメリハリの利いた構図や建物の柱などを生かした大胆な表現、そして何より描かれた人々の生き生きとした姿など増村作品とダブります。

 

  北斎の富士は、増村の若尾文子でもあり、自身でも気づかない若尾文子をカメラを通して暴き出したような作品群は、「赤い天使」から「妻は告白する」「夫が見た」「卍(まんじ)」「刺青」へと連続して、若尾文子の新たな魅力を生み出しました。若尾文子の顔の大胆なアップから、その美しさに潜む怖いほどの魔性をも表象する表現技法とそれを倍増させる構図など、私は「増村監督は映像の浮世絵師である」と、若かりし頃「映画芸術」誌に投稿しました。

 

同時に、真ん中に大きく役者を描いた浮世絵の役者絵を彷彿させるように、増村作品は、若尾文子のみならず「兵隊やくざ」と云えば勝新太郎、「痴人の愛」=安田道代(後の大楠道代)、「第二の性」=緒形拳、「黒の試走車」=田宮二郎、「遊び」=関根恵子(後の高橋恵子)と云った具合に作品名と主演俳優がしっかりリンクして記憶されてしまうのも特徴です。それだけインパクトのある演技力とカメラワークを要求しての撮影を徹底した結果でしょう。


 見落とした渥美マリの「でんきくらげ」と浅丘ルリ子の「女体」を始め、シルバー割引310円で、あの大スクリーンで、フィルム映像の増村作品に再会できるという喜びで、ついつい饒舌になりましたが、「黒沢明作品の脚本家・菊島隆三と増村保造は、甲府盆地が生んだ日本映画の巨星である」に免じて、ご勘弁ください。