2014年3月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―320『民具-3大鋸(おが)・木挽(こびき)』

 右の写真は、30年近く前、昭和町教育委員会が町民の皆様から寄贈いただいて収集した民具や農具の中にあった大きなノコギリで、正式名称も文字通り大きな鋸と書いて「大鋸(おが)」です。

 この大鋸をつかって木材を挽き切ることを「木挽(こびき)」と云い、それを職業とする現在の製材業の人も「木挽」と呼んでいました。      

 

 江戸に幕府を移すに際しての江戸城造営に全国から木挽が集められ、現在の東京都中央区銀座1、2丁目辺りに居住させたことから、この一帯の旧町名は、1951年(昭和26年)に「銀座東」と改称するまで木挽町だったそうです。

 写真のような一人で挽く「大鋸(おが)」は、江戸時代になって開発され、「前挽き大鋸」と呼ばれ、画期的なノコギリだったそうです。それ以前は、二人で挽くように対象の位置に取っ手が二本あり、木挽き歌を唄いながら力を合わせて挽いていたようです。

 

 葛飾北斎が描いた『富嶽三十六景』の「遠江山中」には、遠江国(現在の静岡県)の山中で働く「木挽(こびき)」たちの仕事姿が描かれています。これは、1831年(天保2年)頃の作品ですから、「木挽」たちが使っているノコギリは、既に1人で挽くことができる「前挽き大鋸」ですが、上からも下からも無理な姿勢で挽いている脇では、切れなくなったノコギリの目立てをしている職人もいて、現在の機械製材を思うと木挽(こびき)職は、大変な労働だったことが分かります。

日本の仕事歌は、「木挽き歌」同様「田植え歌」や「酒づくり歌」など重労働、反復労働の中で産まれた労働歌ですから、過酷な仕事を癒す必要から自然発生したものなのでしょう。