2014年1月27日月曜日

 杉浦醫院四方山話―308 『泉昌彦「地方病は死なず」3』

前話に続き、泉昌彦著「地方病は死なず」の中で、語られてい健造・三郎父子についてご紹介します。 160ページの「ギャアギャアになった母の章」では、

<”地方病患者に効かない注射を打って、蔵を建てた医者が多い”と、悪名高い医者どもの話は、有病地農民の間に、隠れもない事実として語り継がれている。>と辛口ですが、久さんの証言として、<当時の散髪代は、一人190円なのに、私が毎日医者へ運ぶ注射代は300円。それがまた、いくら打っても治らない、3軒も医者をかえて都合2,300本は打ちました。最後に教えられて行ったのが、今の昭和町で開業していた地方病の名医・杉浦三郎先生ですよ。杉浦先生のところで20本か30本打ってもらい、ようやく治りました>と。
また、この本には<中巨摩郡S町の米作地帯で、・・・>とか<1978年、S町でAさんの葬儀があった日、・・・>のように「S町」がよく登場します。当時の中巨摩郡でS町となるのは、「昭和町」「白根町」「敷島町」ですから、昭和町でのエピソードの可能性も十分あります。

 167ページの「昇仙峡に残る二枚の絵」の章には、杉浦醫院に通院した甲府の老婆の証言として、
 
<「一日おきに通院しましたが、乗り物のない時代のことで、朝暗いうちに出かけて昭和まで片道2里半(10キロ)の道を往復するのは、大変で苦しみでした」 この老婆が通院したころの杉浦医院の記憶では、朝暗いうちから150人から200人もの地方病患者が押しかけ、番号札をもらって治療の順番を待ったという。>とあります。
 
 上の写真が、現在も医院入り口に展示してある順番待ちの「番号札」です。既に数字が消えかかっているものもあり、「壱」は、使用頻度も多かったからか、消えた字をなぞって書き加えたようです。
純子さんも「多い日には300人近い患者さんがあり、病院の前庭には近所の農家が、米や野菜の店を出して、患者さんに売るほどでした。先生、場所代を払うように俺が言ってやる。なんて云う威勢のいい患者さんもいて、父は笑っていましたが、庭は、病院だか青空市場だか分からないようでした」と。
 
 このように、泉氏がこの本を書いたのは昭和50年代ですから、昭和52年に亡くなった三郎先生の記述が多いのですが、112ページ「小さな魂の供養」の章には、健造先生の名前が残っています。
 
<1924(大正13)年5月17日、中巨摩郡昭和村西条にある正覚寺において、ひそやかな供養が行われた。杉浦健造医師はじめ多くの医師たちが、人間の繁栄のために死んでいった、無数の実験動物の霊を慰めるための塚を建てたのである。この塚こそ、地方病撲滅に昼夜を厭わずに打ち込んだ当時の医師たちの、深い情の片鱗を伝えるものである。>と。
 大正13年5月17日と建立の日時まで残っている慰霊塚ですが、現在の正覚寺境内にはありません。この塚撤去も「地方病は終わった。地方病のことは隠せ」と云った風潮の中での出来事なのでしょうか?