2013年9月28日土曜日

 杉浦醫院四方山話―276 『医業・医者ー2』

 雑談の中での純子さんの話には、ウエットに富んだ面白いエピソードが多いのも特徴です。先日も「父は、家には竹藪があるから、正真正銘の藪医者だ、とよく言ってました」と三郎先生の冗談話を紹介してくれました。
 適切な診療や治療ができない医者を揶揄する「藪医者」は、現代でも慣用語として使われていますが、江戸時代は、「医者でもやろうか」と思えば、誰でも簡単に医業が開業できたそうですから、藪医者が多かったのも当然でしょう。
 

 「藪医者」の語源は、諸説あってどれも的を射ていて感心しますが、一般的には「藪をつついて蛇を出す」ように「医者に掛って、余計な治療をされてかえって体調が悪くなってしまう」ことに由来するのでしょうが、こんな説も有力です。
「藪は風で動く」ことから、「風邪をひくと、医者も動ける」の意で、いい換えると「風邪くらいなら呼ばれるけれど、難しい病気では、声が掛からない」という見下された医者が藪医者だと。また、単に野暮医者が、なまって藪医者になったとも言われていますが、どの道「藪」か否かは、世間が評価することで、医者本人が決めることではありませんから、自ら「正真正銘の藪医者だ」と笑い飛ばしていたと云う三郎先生は、その辺にも自信と余裕があったのでしょう。
 患者が来るかどうかは別ですが、資格も国家試験もない訳ですから、簡単に医者になれた分、藪医者かどうかの品定めや風評は現代以上に厳しく査定されていたのでしょう。
 
 また、士農工商の江戸時代ですから、医者も看る患者で、幕府や大名に召しかかえられていた御殿医=御典医(ごてんい)、藩に仕えた藩医、民間の町医者の3段階に分けられていました。誰でも開業できたのは、町医者で、御殿医、藩医は、現代から観てもかなり高度な医学知識と治療術を身に着けた専門職だったそうです。
 

 御殿医や藩医のような格の高い医者にはおいそれとなれなかった大きな理由は、処方する薬と医療技術にあったそうです。薬や病気に対する高度な知識や技術は、門外不出にして、代々「家」によって受け継がれるよう医者の家元制度が敷かれていたそうです。
その代り、殿様の病気を看る御殿医や藩医の家では、実子が跡取りになれなかったケースが大部分だったといいます。実子を含めた弟子の中から医療技術も人格も最も優れた者に家督を譲る必要から、実子より優秀な弟子を養子にして、「お家」存続と医術の高度化を最優先するのが当たり前だったのでしょう。
 医者であり作家の森鴎外も江戸末期に現島根県津和野で、津和野藩主、亀井家の代々御典医をつとめる森家の長男として生まれましたが、祖父と父は共に養子だったと言いますから、実子と云えども実力がなければ継げない厳しい世界だったことも分かります。