2013年6月22日土曜日

杉浦醫院四方山話―248 『祝 富士山世界文化遺産登録』

 昨日から今朝にかけ日本のテレビ局は、富士山の世界文化遺産登録の正式決定が間もなく決まる旨の報道を繰り返し、中継で富士吉田市や富士河口湖町の役場や住民の声を伝え、祝賀ムード醸成を煽っています。
 甲州の「義理人情の並ぶ家庇①」で育った私ですから、ここは横並びで、杉浦醫院からの今日の富士山をお届けしなくてはと朝から「おあつらひむきの富士②」の一枚を狙っているのですが、午前中は「註文どほりの景色③」とはいかず、杉浦醫院板塀越しの富士山はこんなでした。
 
 「富士には月見草がよく似合う」の太宰治は、河口湖の天下茶屋に滞在して執筆しましたが、総じて富士山は合わなかったようで、「私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、風呂屋のペンキ絵だ」とか上記の「」②③のような表現をしています。
 
 富士山と云えば、私には金子光晴の「富士」が忘れられない詩です。戦争末期の昭和20年3月に一人息子にも召集令状が舞い込み、光晴は息子を水につけたり松葉や杉の葉をいぶして煙を吸わせて体を弱らせ、喘息発作の診断書で召集を免れさせましたが、息子を戦地に取られるという不安に怯えながら疎開先の山中湖で書いた詩です。
戦地で失踪した息子の行方を探して夫婦であてどなく歩き回るという重苦しい夢から覚め、外に出て見上げた富士山は、金子夫妻にとって息子を奪い取ろうとする権力と重なったのでしょう。
 
  「富士」   金子光晴
重箱のやうに狭つくるしいこの日本。
すみからすみまでみみつちく俺達は数へあげられてゐるのだ。
そして、失礼千万にも俺達を召集しやがるんだ。
戸籍簿よ。早く燃えてしまへ。
誰も。俺の息子をおぼえてるな。
息子よ。この手のひらにもみこまれてゐろ。
父と母とは、裾野の宿で一晩ぢゅう、そのことを話した。
裾野の枯れ林をぬらして小枝をピシピシ折るやうな音を立てて夜どほし、
雨がふってゐた。
息子よ。
ずぶぬれになつたお前が重たい銃を曳きずりながら、
喘ぎながら自失したやうにあるいてゐる。
それはどこだ?どこだかわからない。
が、そのお前を父と母とがあてどなくさがしに出るそんな夢ばかりのいやな一夜が長い、
不安な夜がやつと明ける。
雨はやんでゐる。
息子のゐないうつろな空になんだ。
糞面白くもないあらひざらした浴衣のやうな富士。
 
 金子光晴は、「」①の「義理人情の並ぶ家庇」の日本に居たたまれなかった詩人でしたが、最終フレーズ「糞面白くもないあらひざらした浴衣のやうな富士」は、「風呂屋のペンキ絵だ」の太宰と共通する羞恥心からでしょう。

富士山の登録審査が始まると云う6月22日の午後4時30分現在、杉浦醫院板塀越しの富士山は、ご覧のとおり曇に隠れてしまいましたから、富士山も案外、金子や太宰と同じ羞恥心に富む山で、「オイラ世界文化遺産だなんてハズカシィー」とお隠れなのかなあー・・・