2013年1月26日土曜日

杉浦醫院四方山話―215 『甲府銀座』


 木喰上人の研究家丸山太一氏は、今年95歳になりますが、甲府や山梨の生き字引と云っても過言ではない博識と記憶力で、訪ねるたびに貴重なお話を分かりやすく話してくださいます。先日は、甲府駅と甲府銀座についての話を伺いましたのでご紹介します。
 前にもお世話になった「峡陽文庫」townphoto.netのサイトに丸山さんのお話の具体的な写真と説明がありましたので、借用してお伝えします。
 峡陽文庫の写真は、現在の遊亀通り(旧柳町通り)を南から北に「銀座通り東」交差点を望む今昔写真です。左の写真の「左側の商店は新藤呉服店、2階建洋館は明治41年1月に竣工した有信銀行の本店であり、新藤呉服店と有信銀行の間が、現在の甲府銀座通りの東側入口にあたる。」そうですから、新藤呉服店の跡が現在の満足屋銀座店です。

下のtownphoto.netの写真は、「銀座通り東」交差点からの西側・銀座通りと東側の三日町通りです。丸山さんのご自宅は、三日町通り写真の4階建て吉字屋ビルの向かい側です。
現在は、甲府市中央4丁目ですが、「銀座通り東」交差点のある遊亀通り沿いが旧柳町で、甲州街道柳町宿として、甲府城下町の中心地でした。この通りには、旅籠が江戸時代は30軒以上並び、明治4年には18軒と記録にありますから、明治維新で激減したようです。現在、ワシントンホテルがあるのも柳町宿の名残でしょうか。
丸山さんのご自宅の裏が、柳町本陣で、建物も戦前まで残っていましたが甲府空襲で、有信銀行洋館も含めこの一帯は全て焼失してしまい、本陣の跡形もなく現在は駐車場になっています。 また、丸山さんのお話では、大正時代中頃まで甲府の銀座は、丸山さんの家の前の三日町通りだったそうです。交差点を境に東が三日町、現在の銀座通りは「三日町見附」で、三日町から三日町見附へと商店が広がって、現在アーケードのある甲府銀座が形成されたそうです。
 このおよそ150年で、甲府の中心・銀座も柳町から三日町さらに三日町見附へと微妙に移って行ったことになりますが、その辺のまとまった正確な資料もなかなか見つからないのも寂しいモノです。