2012年12月10日月曜日

杉浦醫院四方山話―204 『増穂町の歴史風土と日本酒』

 前話の「冨水」秋山酒造について、正確を期す為、笹本社長に尋ねると「それなら、俺よりオカッサンの方が詳しいから会社に電話して」と云うので、オカッサンの笹本夫人は、事務局をしていた婦人会の役員としてご活躍いただいた方なので、早速電話してみました。
「秋山酒造とウチは親類なので、あのオッサンと結婚するまで、私は冨水を造っていたの」と・・・「冨水の杜氏も新潟からでしたか?」「違う。信州長野から。眞澄って酒知ってる?」「はい。諏訪の宮坂醸造の」「そう。あの頃、眞澄は、冨水を桶買いしていたんだよ。三増酒だよね」と、専門用語で内部情報まで。「青柳には、目と鼻の先に冨水と春鶯囀があった訳ですね?」「そう、ウチは両方とも親戚だけど・・他にも不知火(しらぬい)を造っていた土屋酒造もあった」「確か大久保酒造っていうのもありましたよね」「あそこは、梅が枝ね。まだ在るんじゃない」と、急な電話にもかかわらず、私が知っていた情報も正確にポンポン出てくる気風の良さに「流石、青柳小町と云われただけのことはありますね」と余計な個人情報まで口にしてしまいましたが、お陰で、増穂町には、かつて少なくとも4軒の造り酒屋があったことが分かりました。
 現在は、合併して富士川町になりましたが、旧鰍沢町と増穂町は、甲府盆地の南端で、富士川流域にあたる河内地方への入口の町でもあり、100隻の舟を有した鰍沢河岸と84隻の舟を有していた青柳河岸は、甲州と信州から集められた年貢米や廻米を富士川で下り駿河から海運で江戸に運び、帰りの舟で、駿河から塩や海産物を積んで川を上り、甲府や信州へ運んだ富士川舟運の港町でした。さらに増穂町青柳は、甲府城下へ至る駿州往還=甲府路と信州方面へ至る駿信往還=信州路の追分け宿として発展した陸路でも要の地だったことから、後に、ボロ電と呼ばれた路面電車も青柳と甲府を結んでいたのでしょう。米が集まり、南アルプスの伏流水が湧き、人が往来する風土に酒が生まれたのでしょう。
 旧秋山銀行の秋山家住宅は、築120年の古民家として、現在、商店街コミュニティ施設として活用され、裏にはギャラリー「蔵」もあります。(写真上)その裏にある「あおやぎ宿活性館」は、往時の富士川舟運の荷積み倉庫として使われていた建物です。(写真下)
 山梨の地酒を代表する増穂町青柳・萬屋酒造店の「春鶯囀」(しゅんのうてん)は、与謝野晶子が泊まりに来た折詠んだ歌、「法隆寺などゆく如し甲斐の御酒(みき)春鶯囀のかもさるゝ蔵」からだそうですから、日本民族の酒・日本酒は、地理や風土から日本史や日本文化も一体で味わえる奥深さがありますから、もっともっと見直され愛飲されて然るべきでしょうが、「桶買い」「三増酒」の暗い過去が、同病相哀れむの暗い人間にしか向かないのでしょうか。