2012年11月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―195 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-2』


 山本さんからの電話で「ヤマハ トラクス」と聴いた時「ハーフなのか?」と思いましたが、寅楠という漢字と紀州藩士の家に生まれたことを知って、同郷の植物学・民俗学者の南方熊楠(みなかた くまくす)が浮かび、ふと、江戸末期の紀州藩では、名字帯刀を許された男子には、「馬楠」「猿楠」と云った「動物名+楠」が、流行ったのかな? と・・余談はさておき、本題に・・
 
 寅楠は、来る日も来る日も修理を頼まれたオルガンの内部を調べ、全ての部分を細かく図面に書き写し、約一ヵ月でオルガンの構造や必要な部品について、何十枚もの図面に書き落とし、壊れたネジも治金術で造り、元通りに修復してしまいました。
 書き写した図面を基に寅楠は、一からオルガンづくりにかかるため資金を求め、あちこち尋ねては協力を求めますが、多くの人は「気でも狂ったか」という中、一人だけ飾り職人で小杉屋を営む河合喜三郎が寅楠の熱意と腕にかけてみようと協力し、小杉屋の仕事場で、朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でオルガンづくりに没頭し、約2ヵ月かかって第一号オルガンを完成させます。真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらうと「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」と言われ、静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)でも同じ結果でした。ドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代で、「調律」と云った言葉も知る人がいない地方でしたから、何がどうおかしいのか、河合と寅楠にも、肝心なところがわかりません。何をどうすればいいのか・・・もっと偉い先生に聞いてみなければと二人は、作ったオルガンを音楽取調所(現東京芸術大学)に持ち込むことにしました。二人は、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運んだと云います。100k近い重量のあるオルガンを箱根の山越えもある東海道を約270kmです。いったい何日かかったのでしょうか・・・・
ようやく音楽取調所に着いた二人に教授たちは驚きました。先ず「素人の個人がオルガンを造ってしまったことに」驚き、「そのオルガンをかついで運んで来たこと」に驚き、「音が全く外れていること」にも驚いたそうです。
   西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、「調律が出来ていないが、あと一歩です。君たち音楽を学んでいきなさい」と二人のために、宿舎を提供し、音楽取調所の聴講生となることを許可してくれます。寅楠は、調律、音楽理論を必死で学び、浜松に帰って、すぐ2台目の製造にとりかかり2ヵ月で第二号のオルガンを完成させ、天秤棒で再び270kmの道のりをかついで音楽取調所に向かいました。そこで、伊沢教授の「すばらしい!よくやりましたね。外国製に負けない見事なオルガンです」の賞賛に、寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。そうです。