2012年11月7日水曜日

杉浦醫院四方山話―194 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-1』

 190話「山葉ピアノ」の文中で「確かに、YAMAHAの創業者は山葉何某(失礼)でしたが、この時代には・・・」の件に関して、山本哲氏が、YAMAHAの創業者は、山葉寅楠であることと杉浦医院内にピアノがある必然性について、教えてくれました。調べていくと「山葉何某」では、失礼の極みであることと和製オルガン誕生の隠された歴史は、「日本人のモノづくり」について考えさせられる「物語」を内包していますので、寅楠氏とその人生についてご紹介してみます。
山葉寅楠は、江戸幕末期の嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた武士ですが、明治維新で家が没落し、寅楠は、二十歳のときに大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びます。ところが肝心の仕事がなく、技術者として職を求めて、全国各地を転々とした結果、明治17(1884)年、寅楠35歳のとき静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらい、浜松に赴きます。要するに寅楠は、県立病院の医療機器修理を専門に請け負う技術者だったのです。
 当時、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられ、浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためのオルガンを輸入したそうです。オルガンは外国製で、とてつもなく高価なものでしたから、このオルガンの話は、浜松だけでなく静岡県じゅうに広まり、各地から大勢の人が見学に訪れたそうです。
ところが、このオルガンがすぐ故障してしまい、外国製で、部品もなければ修理工もいないことで困った学校は、浜松県立病院に医療精密機器の修理工・山葉寅楠がいるという話を頼りにオルガン修理を寅楠に依頼したのだそうです。寅楠にとっても、見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか不安だったでしょうが、まわりの人が心配そうに見守る中、オルガンを点検し、内部のバネが二本壊れているだけだと寅楠はすぐに見抜いたそうです。同時に「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺にもつくれそうだ」「アメリカ製のオルガンは45円(現4500万円)もする。自分なら3円(現30万円)ぐらいでつくることができるだろう!」と、また「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」と国産オルガンの製造を決心し、個人商店「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」を立ち上げたのだそうです。
風琴(ふうきん)は、風を送って音を出す琴といった意味で、オルガンの和名でしょう。ここから国産オルガン第一号が製造されるまでの「物語」に続きますが、オルガンからピアノへと進んだ原点は、「医療機器」にあったことを三郎先生は知っていたのでしょうか・・・