2012年8月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―166 『皇室フリーク-1』

 杉浦醫院の応接室と診察室には、昭和22年10月に昭和天皇が山梨に行幸した折、三郎先生が奏上書を書き案内した時の写真が、3点掲示してあります。
都が奈良や京都にあった朝廷の時代から、天皇が自ら地方に赴くことは稀でした。日本中至る所に「特産品」があるのは、天皇制によるものだと高校時代学びましたが、朝廷には、特産品から采女(うねめ)と称する女性まで全国各地から献上されるもので、皇室が地方に出向くのは、避暑や観光などに限られていました。
 昭和20年の敗戦を機に昭和天皇は「この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」と話し、「全国巡幸」を始めました。その結果、昭和天皇は、山梨県だけでも昭和22(1947)年、昭和25(1950)年、昭和32(1957)年、昭和61(1986)年と4回来県しました。これは、戦後復興に励む国民にも歓迎され、天皇制存続の世論形成にも貢献し、多くの皇室ファンとも言うべき皇室フリークを獲得しました。これは、自衛隊の災害時の出動同様、被災地には天皇、皇后が訪問され、励まされるのが当たり前の現在の皇室と国民のありように継続されていますが、歴史的には60年余の浅い歴史ですから、愛される皇室づくりに自ら地方に打って出ることを始めた昭和天皇は、皇室の革命家だったとも言えます。 特に昭和天皇は生物学者でもありましたから、山梨と云えば地方病と云うことで、昭和22年の最初の巡幸で有病地帯を視察し、専門的な質問を三郎先生に尋ねられたり、以後の来県でも案内役の知事に「地方病のその後」について毎回尋ねたそうです。      三郎先生が昭和天皇を案内したことによるのかは定かでありませんが、杉浦家に残されている雑誌を拝見する限り、杉浦家の方々も「皇室フリーク」だったようです。まあ、雑誌の類は処分していくのが一般的ですから、他の雑誌は定期的に処分しても皇室関連の特集雑誌もひとまとめに処分するのは後ろめたく、はばかられた結果、皇室関連雑誌が多く残っているのかも知れません。この後ろめたさが「内なる天皇制」としてすり込まれているのが日本人だと説く学者もいますが、多くの蔵書家が共通して「蔵書を観られるのは精神のストリップのようで嫌だ」と言うのもその辺の機微もあってのことでしょう。