2012年8月2日木曜日

杉浦醫院四方山話―164 『風土を伝承するー5』

昭和町風土伝承館ですから、昭和町の文化風土醸成の歴史と人々を紹介して、このシリーズのまとめとします。この地に生まれ育ち、この地で生活しながら或いは東京に出て文化活動に励まれた先達個々については、昭和33年発行の「昭和村誌」にジャンルごと個人名で紹介されていますので、詳細は図書館にもある村誌でご確認いただくとして、この村誌を監修した宮崎正一の存在と力量は見逃せません。読売新聞の硬派な筆陣で知られ、同時に短歌運動30年の文芸家として全国区で活躍されていた方ですが、体調を崩して西条新田に帰省、療養中に村誌編纂が重なり、懇願されての監修役だったようですが、後の昭和町誌の原型ともなるまとまった内容の村誌を残した功績は多大です。尚、当四方山話129話『宮崎家長屋門』でご紹介したのが、宮崎正一の生家です。

 健造・三郎父子は、いわゆる近代医学と言われる西洋医学を修めた医者ですが、杉浦家は、江戸初期からこの地で代々漢方医を営んできましたから、杉浦醫院5代目杉浦道輔も漢方医でした。健造の祖父ですが、6代目の父大輔が早世したため、大輔の弟、嘉七郎が7代目となり、8代目の健造、9代目三郎に引き継がれました。
 昭和4年に母家に続く病院棟を建設した折、健造は病院棟の前庭に「清韻先生寿碑」を建立しました。杉浦健造先生頌徳誌の中には「道輔ハ文学ニ秀デテ武術ニ長シ詩歌絵画ニ堪能ニシテ特ニ好ンデ墨竹ヲ描キ名誉ヲ博シ杉浦家ニ遺筆ヲ残ス」とあるように、道輔遺筆の墨竹画と書が、十数点現在も杉浦家に残っています。健造も歌を詠み作品も残っていますから、祖父の影響と思慕から道輔の偉業を後世に伝えていこうと健造先生は「清韻先生寿碑」を建てたのでしょう。

 この清韻先生=道輔の前の江戸時代中期、西条の若宮八幡宮の神職にあった山本忠告も山県大弐と並ぶ郷土の学者です。京都に遊学して神道や国学、和歌を学んで帰郷し、加賀美光章、飯田正紀らと皇道の復古を説くと共に音楽や和歌に長じ、歌集「月明集」などの著書は、現在東大図書館にあるそうです。山本忠告の子孫である山本節も山日新聞記者や甲府商業教諭として、竜馬と千葉さなの論考や漢詩の指導などで活躍した異才でした。
 この地に生まれた多くの先達の文化的気質が、柳沢八十一氏や油川行広氏など昭和町文化協会設立の中心メンバーに引き継がれ、現在に至っていることを「昭和村誌・第4編生活のゆとり」の中で実感することが出来ます。(この稿、敬称は略させていただきました)