2012年7月13日金曜日

杉浦醫院四方山話―158 『診療録・カルテ-2』

 東京はじめ県外から杉浦医院に通院した方々は、山梨で農作業の手伝いをしたり、子どもの頃川遊びに興じて地方病に感染し、その後上京したり引っ越した方だったようです。「東京や神奈川など県外の医院や病院では、地方病の治療が分からず、紹介状を持ってここへ来ていたようです」と純子さん。
杉浦醫院は、内科医でしたから、カルテも全てが地方病の患者のもであはりませんが、9割近いほとんどが地方病のカルテですから、「地方病の杉浦医院」と云われたのも過言ではありません。
治療法のなかった地方病に幾多のハードルを克服して、大正12年(1923年)に「スチブナール」が日本住血吸虫駆虫薬として開発販売され、地方病の本質的な治療が可能となりました。しかし、このスチブナールも昭和2年発行の山梨県誌には「塩酸エメチン、もしくはスチブナール注射は、2、3 の死者を生じたることありしゆえ、あるいは副作用をおこす恐れありとして、県はいまだ治療法を採択するに至らず」とあるように、本格的に使用されたのは昭和2年になってからだったようです。
糞便検査で日本住血吸虫症と診断された患者は、杉浦醫院でスチブナールや塩酸エメチンの注射を20本前後打つ治療をうけましたが、薬の副作用が強く、右の写真のように2、3日間をおいて打つのが一般的だったことをカルテが示しています。
しかし、「打たれ強い」という言葉もあるように人間の個体差は人それぞれなのでしょう。下の写真の患者さんは、合計22本の注射を6月3日からほぼ毎日打っています。この患者さんには「剛の者」の証しともなる記念のカルテですから、30年代に通院した患者さんで希望する方には、三郎先生直筆のカルテをお渡し出来るよう検討してみる必要があります。