2012年1月11日水曜日

杉浦醫院四方山話―106 『銀時計』

 「マルクス経済学者大内兵衛氏は、健造先生より約20年後の1988年に生まれ、東大経済学部を首席で卒業し、大蔵省を経て東大教授となりました。」と前話で紹介しましたが、結婚式などで、ご祝儀言辞だとしても「首席で卒業し・・」などと聞くと「首席卒業って、どういう基準だろうか」と縁のない私には不思議な謎でした。江森 敬治著「銀時計の特攻―陸軍大尉若杉是俊の幼年学校魂―」(文春文庫)を読んで、その謎が解けましたので、この機会にご紹介してみます。 以下、「首席」と「銀時計」についての解説を貼り付けます。 ― 明治維新から第二次大戦までは、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校等の軍学校、帝国大学、学習院、商船学校において、各学部の成績優秀者に対して、天皇からの褒章として銀時計が授与された。天皇(又は代理)臨席の卒業式で与えられ、至高の名誉と見なされた。銀時計を授与された者は「銀時計組」と呼ばれた。 ― 貼り付け終わり。
 「首席卒業」と「銀時計」は、帝国憲法時代、軍学校から始まり、旧帝国大学等に対象が広がった制度ですから、銀時計が授与された者は、「首席卒業」を公にできた自他ともに認めるエリートだった訳です。ちなみに東京帝国大学では1899年から1918年まで授与制度が続き、323人が銀時計を授与されているそうです。また、選定基準は必ずしも明確ではなく、成績と人格も評価され、学部1名と決まっていた訳ではないそうですから、当時も自称「首席」はいたようです。
戦後の大学では、防衛大学校を含め、この銀時計授与はありませんから、誰が首席卒業者かは分からないのが普通ですが、「毎年、○○ゼミから首席が・・」とか「○○に就職したのが首席だ」とか・・未だ「首席」好きもいるようです。 
                 
 戦前の銀時計拝受者は、それに価するに足る十分な自覚があったというテーマで追ったのが「銀時計の特攻」です。これは、幼年学校、士官学校予科、航空士官学校と恩賜の銀時計を三度も拝受して卒業し、「将来の陸軍大将」と誰からも嘱望された青年将校若杉是俊の評伝です。若杉は、特攻隊の創設と共に率先志願して、昭和19年12月、フィリピン・ミンダナオ島沖の米艦隊に突入戦死しました。将来、帝国陸軍を背負って立つ逸材と目されたエリートにもかかわらず、「銀時計組」の自分は、軍人の模範とならねばならないと特攻を志願し散りましたが、同期や後輩には「絶対特攻にはなるな」と言い遺しています。この強烈な使命感は、真のエリートたる自覚を育んだ三つの銀時計と無縁ではないでしょう。大内兵衛氏の一貫性にもつながる22歳の散華は、こんな私でも涙なくして読めなかった一冊でした。