2012年1月7日土曜日

杉浦醫院四方山話―105 『春風満座』

新春を迎えた杉浦家の座敷床の間は、前話の写真のとおりですが、座敷西側の額も「春風満座」の額に交換されました。文字通り「春風座に満つ」で、座敷は一気に迎春の趣になり、書や絵画の存在感と軸や額という表装文化の掛け替えることの意味など、現代社会が忘れかけた「暮らしの歳時記」という言葉と実態を感受できました。
 厳しい寒さが続いていますが、この書を見上げると「冬来たりなば、春遠からじ」といった諺にも思い至るのは、この書が、大内兵衛氏の揮毫だからでしょうか。「私が物心ついた時からお正月にはこの額に変えていましたから、祖父の代のモノだと思いますが・・・」と純子さん。
 マルクス経済学者大内兵衛氏は、健造先生より約20年後の1988年に生まれ、東大経済学部を首席で卒業し、大蔵省を経て東大教授となりました。しかし、軍国主義がすすむ戦時下、マルクス経済学者は苛酷な弾圧をうけ、ほとんどのマルクス経済学者は大学から追放されました。大内氏は、その代表的な学者としても著名ですから、失職した時期の「書」であれば、「明けない夜はない」と云った意味も含めての「春風満座」の可能性もあります。 
大内氏は、漢詩や能筆でも知られた文化人で、4、5年前「治安維持法違反容疑で逮捕された大内兵衛氏の拘置先の早稲田署で揮毫した漢詩が見つかった」という新聞報道がありました。その漢詩は、無題の七言絶句で、「囚われの身では何もできないと人は言うだろうが、自分には歴史を観る眼が備わっており、留置場に閉じ込められても、狭苦しいとは思わない」と心境を謳い、末尾に「昭和13年初夏於早稲田署 大内兵衛書」と署名があったそうです。
 「歴史を観る確かな眼」は、戦後の東大復職、退官後の法政大学総長、美濃部都政のブレーンと・・大内氏の「春」に続きました。この時代の書であれば、三郎先生の代と重なり、純子さんの「物心ついた時から・・」と大きくズレますので、大内兵衛氏が不遇な時期に健造先生が清韻亭の座敷の一幅として、揮毫を依頼した可能性の方が高いように思いますが、大内兵衛氏と杉浦健造氏の接点になる資料や証言は、今のところありません。