2011年12月1日木曜日

杉浦醫院四方山話―97 『杉浦家12月のお軸』

 「12月のお軸は難しいですね」と声をかけられ、「そうか、今日から12月だ」と気がつくお粗末ぶりですが、10月から11月にかけ、杉浦家の床の間は、週単位、日単位で掛け軸が交換され、紹介が追い付きませんでした。「12月は、やはりこれでしょうか」と用意されたお軸は、高浜虚子の俳句です。虚子は、85年の生涯で20万句近い句を残したといわれていますが、その代表作の一つがこの「遠山に日の当たりたる枯野かな」です。明治33年作ですから、虚子26歳の時の作品であることに驚きます。
 正岡子規に師事し、若くして台頭した虚子は、子規が提唱した「写生」を発展させるべく、主観句の流行に対して、小主観を超える「客観写生」を主張しました。これは、写生の対象を客観である花鳥に限定して詠むことの必要性を説いたもので、「客観写生」という言葉も虚子自らが造りました。
 「客観写生が俳句修業の第一歩である。それは花なり鳥を向こうにおいて、それを写し取るというだけのことである。しかし、それを繰り返しているうちに、その花や鳥が心の中に溶け込んできて、心の動き、感じのままに花や鳥も動き、感じられるようになる。花や鳥が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、滲んで写ったり、濃淡陰影すべて自由になってくる。そうなってくるとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写すことになる」として、「客観写生」による発句を生涯実践しました。
 虚子作品でも客観写生の傑作と言われている「遠山に日の当たりたる枯野かな」。寒々とした枯野、その向こう側には冬の弱い日を浴びた遠山。枯野と遠山以外には何も詠み込まれていない写生句ですが、読む人には静寂枯淡の境地を味あわせ、どこか象徴的な感じを与え、結果として、虚子の心境も吐露しているものと言われています。
虚子は、「心を空にしてどんな観念の介入も許さず、どんな句を詠もうかも考えず、ただ素直に自然に立ち向かえば、自然は必ず何か強烈な感動を与えてくれる。そうした自然の断片だけを正確に写生すればよいのである。」と繰り返し、「これを花鳥諷詠といい、俳句は、花鳥諷詠以外に目的を持たない」とまで断言しました。
 「家の周りは全て田畑でしたから、南には身延線も見えましたし、北はずっと南アルプスまで平坦な感じで、四方の山がよく見えました」という杉浦家にとって、12月は田畑も枯れ、時間ごと日の射す山も変わり、「遠山に日の当たりたる枯野かな」は、冬を実感でき、ここで詠んだようにも思える句だったことから代々引き継がれてきたのでしょう。