2011年10月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―84 『明治四十年大水害実記-2』

 明治43年にも再び甲府盆地一帯は大水害に見舞われました。引き続く大水害は、明治になって県内林野の約7割にあたる35万町歩が国に官収され、その後、皇室の御料に編入されたことから、林野の乱伐や盗伐、放火や失火などが多発し、山林が荒廃し、山の保水力が著しく劣化していたことが、一番の原因でした。その為、明治44年(1911年)に皇室御料山林は県に下賜され、恩賜県有財産(恩賜林)として県が管理することになりました。
 この天皇家の山林が、県民の財産として県に移管された、その「ご恩」に「感謝」して建てたのが、甲府城の「謝恩塔」であり、城内に今もある「恩賜林記念館」です。
それにしても史実に無いものを勝手に再現できないとする現代の文化財保護法からすると甲府城内のそれも本丸に天皇の恩に謝する塔を建てというのが、いかにも「明治」を象徴していると思いますが、水害と山林の関係は、先の和歌山県紀伊半島で起こった土砂崩れ、深層崩壊でも同様でした。戦後、急峻な崖にまでスギやヒノキを植林して、人工林を造ってきたのが山林行政でした。このような人工林では根が1m~1.5mほどしか育たず、地盤を強化することはできないと言われています。落ち葉や潅木による保水作用も衰え、雨が長期に大量降り続けると雨水は山肌の地中深く岩盤まで浸み込んで、深層崩壊にまで至ると指摘されています。同時に、外国の安い木材によって日本の林業は成り立たなくなり、間伐や伐採後の植林も行われない放置山林が多くなりました。手を入れなければ人工林はあっという間に荒廃し、地表のわずかな保水力も失われ、さらなる地盤の弱体化につながります。こういう、斜面崩壊が起こる条件は、日本中の山林で指摘されていますから、山梨県下でもまたいつ起こっても不思議ではない状況です。
「公共工事」の見直し、縮小が「改革」だとする国民的洗脳が進み、必要不可欠な公共工事も事業仕分けされてきた結果が、今回の水害の要因だと言う指摘もあります。失った「命」は、復旧、復興は出来ませんから、かけがいがあるかないかは別に「命」に関わる「公共工事」は、きちんとやっていくという政治、行政の必要性を「謝恩塔」が指し示していると解すべきでしょう。
 今日の新聞に、11月14・15日に天皇夫妻が、「恩賜林下賜100周年記念大会」出席の為、来県するとの報道がありました。3月11日の東北地方を襲った大地震、大津波についても過去の歴史に学ぶ必要があった旨の指摘も多く、あらためて「災害は忘れたころやってくる」と云う諺の重みも実感します。「明治四十年大水害実記」未読の方は、昭和の図書館にもありますので、この機に「過去の水害史」を知る意味でも是非どうぞ。