2011年10月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―83 『明治四十年大水害実記-1』

 舞鶴城の整備や北口再開発で、甲府駅周辺が様変わりしていますが、舞鶴城と呼ばれる甲府城のシンボルは、城跡にそびえ立つ石碑「謝恩塔」に変わりありません。
この甲府城に天守閣が実在していたのか否かは、議論のある所ですが、本来天守閣がそびえていてもよさそうな本丸に場違いな天を突きさす石塔。石垣とのミスマッチも見方によれば、現代美術風でもありますが、復元された稲荷櫓や山手御門を入っての本丸がこの「謝恩塔」では、「観光立県やまなし」も・・・ですね。
 現在、杉浦醫院では小企画展として「マルヤマ器械店と丸山太一氏」を開催していますが、丸山太一氏の著書・編著は、木喰上人関係のみならず「明治四十年大水害実記」もあります。甲府城の「謝恩塔」は、明治40年、43年と続いた甲府盆地一帯の大水害の記念碑でもあることもこの「明治四十年大水害実記」が教えてくれます。      
 明治40年(1907年)8月26日から27日にかけて、甲府盆地東部及び峡東地区一帯は、台風の記録的大雨で大水害に見舞われました。現在の石和町、御坂町一帯では、河川が乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などで、家屋も全半壊し集落が孤立しました。耕地の流出や埋没、交通の寸断など多大な被害を出し、死者233人、流出家屋5000戸という、近代では、山梨県最大規模の災害でした。この「明治四十年大水害実記」は、当時の山梨県知事武田千代三郎氏が、郡内地方への視察の途中、御坂峠でこの大雨に合い、道路が寸断され、山中を一昼夜歩いて石和までたどり着き、そのまま陣頭指揮にあたったという体験の実録です。武田知事が、格調高い漢文で記したものが、石和の佛陀寺に保管されていたそうです。
 丸山太一氏と甲府中学の同級生で、昭和町河西在住の五味省吾氏が、石和郵便局長時代に佛陀寺のこの文章を丸山氏に持ち込み、解読を依頼したことから、この本が陽の目を見ることになったそうです。丸山氏の言葉を借りると「家業を家人に任せ、辞書片手に漢文と格闘して解読した」そうですが、武田知事の実況中継のような迫力ある体験が、面白くもあり夢中になって、現代語に訳したそうです。この大水害で、笛吹川の流路も大きく変わり、家を失った罹災者の北海道移住計画で、羊蹄山の麓に3000人余りが移住したそうです。移住した方々は、羊蹄山を「蝦夷富士」と呼び、故郷山梨を偲んだそうですが、この大水害によって、甲府城に「謝恩塔」が建立され、現在に至っていることを知らない観光客には、「お城にあの異物は、なに?」となるのも自然でしょう。