2011年8月9日火曜日

杉浦醫院四方山話―68 『幻の競馬場』

 杉浦三郎先生には、純子さん達3姉妹と末っ子の長男健一さんの4人のお子さんがいました。健一さんは、定年まで自衛隊中央病院の勤務医として、三島由紀夫の割腹自殺や御巣鷹山での日航機墜落事故の際、自衛隊のヘリで次々運び込まれた乗客を医長として迎え、厳しくつらい思いをしたそうです。退職後、千葉の病院長に招聘され、現役院長で亡くなり、杉浦医院は9代目三郎先生で閉院となりました。        
純子さんから近くにあった競馬場と健一さんの話を聞きました。「健一が、3,4歳の頃、住み込みの運転手さんが、健一を自転車に乗せて、よく競馬場に行っていました。」「運転手さんは、健一に競馬場に行ったことは内緒にするよう言いきかせたようですが、夕飯の時など健一が、お馬パッカパカ、お馬パッカパカと競馬場での馬と騎手のマネをするので、今日行ったのは競馬場だと直ぐ分かりました。三つや四つの子に口止めしてもお馬パッカパカで直ぐバレますよね」と。 
この運転手さんが、健一さんを連れて通った?競馬場は、玉幡飛行場の前身で、昭和3年に中巨摩郡畜産組合の管轄のもと開設された「甲府競馬場」です。昭和8年に運営が山梨県競馬会に移管され、昭和12年まで年2回開催の地方競馬場でしたが、昭和13年に山梨愛国飛行場(玉幡飛行場)の拡張で、競馬場用地は買収され、一度消滅しました。
昭和6年生まれの健一さんが3,4歳の頃は昭和10年前後ですから、甲府競馬場の全盛期でしょうし、開催も年2回では、これを楽しみにしていた運転手さんの気持ちも分かります。終戦で飛行場が閉鎖された昭和21年に地方競馬法が公布されたことから、再度「玉幡競馬場」として施行許可を受けましたが、甲府空襲で伊勢校舎が全焼した山梨県立農林学校(後の県立農林高等学校)の移転先になり、競馬は開催されることなくそのまま廃止となった「幻の競馬場」です。また、現在「廃棄道」呼ばれている道路は、当時、通称「ボロ電」と呼ばれた路面電車が走っていました。
甲府駅前から市内中心部を抜け、荒川橋で荒川を越え、増穂町の甲斐青柳駅までの約20kmを約55分で走り、30分間隔で運行していたことから、最盛期には年間に2、300万の利用客があったそうです。ボロ電は、甲府競馬開催期間中は「玉幡仮停留場」という臨時駅を開設し、後に「競馬場前」名で正式駅となりました。この駅名も競馬場が飛行場に替わると「飛行場前」となり、軍施設が明らかになる駅名は回避せよの令で「釜無川」駅となり、昭和26年に「農林高校前」と改称され、路線が廃止になる昭和37年まで高校生の足となっていました。