2011年8月7日日曜日

杉浦醫院四方山話―67 『飛行機格納庫』

 このブログで以前にもご紹介した木喰上人研究家の丸山太一氏から、先日、電話をいただきました。「杉浦さんの関係で、大事な話をし忘れていました。甲府空襲はご存知ですね?」「はい、20年7月7日の七夕空襲ですね」「そうです。その空襲で甲府の中心地は全焼し、私の家も丸焼けになりました。終戦になって直ぐ、三郎先生から杉浦さんの敷地にあった陸軍の飛行機格納庫をいただいたんです」「檜の材質でしっかりしたものでしたから、中を改造して10年住みました」「戦後の物資のない時代、どこもトタンやあり合わせの木材で雨露をしのぐバラック建てでしたから、格納庫とはいえ陸軍の物でしたから、太い柱や梁で、本当に助かりました」「玉幡飛行場が近い杉浦さんの敷地は、広くて大きな木に覆われていましたから陸軍が目を付けたのでしょう」「父の文造は健造先生に、私は三郎先生に・・杉浦さんには代々お世話になました」と。「純子さんは、うちは丸山さんにお世話になって・・とよく話してくれますが」「私の妹も私と東芝に同期に入社した東大の浜野君と縁あって結婚しましたが、三郎先生に仲人をしていただきました」「純子さんの弟さんの健一さんの結婚式にも呼んでいただきましたが、亡くなられて本当に残念です」「涼しくなって、出歩けるようになったら一度伺いますので、くれぐれもよろしくお伝えください」と要件を的確に綺麗な言葉で伝える94歳の丸山氏の電話に、ただただ「はい、はい」が精一杯といった「格の違い」が際立ちました。
株)北川組が陸軍各務原航空隊に
大正9年に施工した格納庫(現存)
玉幡飛行場は、現在の農林高校や警察学校、釜無工業団地の一帯にあった「幻の飛行場」ですが、旧玉幡村にあったことから「玉幡飛行場」の名称が一般的ですが、正式には「愛国山梨飛行場」として、1936年に完成した飛行士を養成する民間飛行場でした。健造先生、三郎先生は、西条村のみならず玉幡村や竜王村の村医や学校医に選任されていましたし、杉浦家の田畑は、両村にも広がっていましたから、泣く子も黙る陸軍が、後に、玉幡飛行場を軍民共用飛行場にして、周辺民間人の敷地に格納庫を建設しても不思議ではありません。純子さんも「現在のアルプス通りの辺に大きな建物がありました。裏のマンションより大きかったように思います」「丸山さんにお譲りしたという話は初めて知りました」と。名古屋にある(株)北川組のH・Pに大正から昭和初期にかけて、北川組が施工し現存している格納庫の写真があります。飛行機を入れる建物ですからご覧のように全て大きなものです。写真転載を快諾いただいた上に格納庫や戦争遺産について、会長さんから丁寧に教えていただきました。