2011年7月15日金曜日

杉浦醫院四方山話―60 『十一屋酒造・野口忠蔵』

 平成の大合併前、「町のレベルを計る目安は、その町に高校、町立病院、警察署があるかの3点に加え、造り酒屋があるかがポイントだ」と当時、市川大門町で地酒「栴檀」を造っていた二葉屋酒造店のO君が話していたのを思い出しました。たしかに市川高校・市川町立病院・市川警察署・二葉屋酒造店と市川大門町には、彼の言う三拍子プラス造り酒屋は揃っていました。焼酎やワインに押され、日本人の日本酒離れが加速したことに加え、市街地でこれまでどおり醸造業が営めなくなった法的規制や醸造業者数抑制の国の方針などで、造り酒屋の廃業は全国的に進みました。山都の酒「太冠」の「大沢酒造」も南アルプス市に移転しましたから、現在は甲府市にも造り酒屋は皆無のようです。
 相川沿いにあった「君が代」の「十一屋酒造」と湯村の境にあった「金渓桜」の「根津酒造」は、私が通った小中の学区域にあった造り酒屋でした。その「十一屋酒造」の創始者野口忠蔵氏について、丸山太一氏から貴重なお話を伺いました。
写真左手前から二番目の建物が柳町の「十一屋」
 野口忠蔵氏は、幕末から明治の初期にかけて活躍した滋賀県生まれの文化人で、富岡鉄斎らと親交をもち、当時、交通不便な故郷に見切りをつけ、甲州の街道筋に進出してきた近江商人でもあったそうです。「甲州商人」同様「近江商人」も、天秤棒による行商で、特産品を地方へ売り歩き、帰りにはその地の産品を仕入れて売る「のこぎり商法」で有名です。
野口忠蔵氏は、志のある同士11人と近江と風土が似通った甲州に目を付け、甲州街道柳町宿として繁栄していた柳町に造り酒屋を興しました。同郷の11人の志を記念して「十一屋酒造」と命名し、清酒名も全国区の「君が代」としたそうです。大正12年に相川沿いの横沢町に移転しましたが、柳町の十一屋跡には現在、甲府ワシントンホテルが入っていますから、当時から甲府の中心地でした。忠蔵氏の孫にあたる野口謙蔵氏は前田夕暮等に師事した画家ですが、忠蔵氏の故郷、滋賀県蒲生野(がもうの)には「飛行場程の広大な土地に、樫の大木が茂る山林もあることから、UTYが木喰上人の映画を企画した折、実際に微笑仏を彫る場面に樫の木が必要になり、私が間に入って、野口家の山林から樫を調達しました」と木喰行道の研究家である丸山太一氏94歳の記憶は鮮明です。「野口家には、北斎の浮世絵はじめ絵画など文化財収蔵品もたくさんある旧家です」「山梨に来た11人は、野口さんだけでなく皆、成功して故郷に錦を飾りました」と。

写真は山梨県に関わる歴史のあれこれ「峡陽文庫」より