2011年3月24日木曜日

杉浦醫院四方山話―36 『純子さんの被爆追体験』

 世界中から注視の福島原発事故は、東電職員や消防隊員はじめ現場で作業に携わった方々の頑張りで、最大の危機は脱し、強度の放射能汚染から逃れることができたようです。重ねて日本人の底力について感じ入っていますが、マスコミも野菜や牛乳、水などの放射性物質測定値とその対策報道に移っています。門外漢の的外れの感想より、この機会に純子さんが語ってくれた「純子さんの被爆追体験」について書き記しておきます。
純子さんの「個人情報」にも触れますが、誰からも文句が付けられないよう「個人情報保護」法と命名されたこの法律は、言論や出版、報道など表現の自由の抑圧を狙った「世紀の悪法」との指摘もありますが、過剰反応による「不都合」や「争い」の実害は、後を絶ちません。純子さんの「私には隠すほどの情報はありませんから、どうぞ」という自己判断力と潔さに学ぶべきでしょう。
 昭和20年8月6日午前8時15分、アメリカ軍は、広島市へ世界最初の核兵器・原子爆弾を投下しました。この一発の核兵器で、広島市の人口の半数近い14万人が死亡しました。市内の医療関係者も9割近くが罹災したため、多くの医療救護班が広島に入りました。当時は、放射能の危険性や放射線についての知識は、物理学者やごく一部の軍関係者しか知らなかったので、救援活動で誘導放射能等により被爆した人も多く、後に「二次被爆者」「入市被ばく者」と規定されました。当時、東京大学医学部助手だった青年医師・岩井徹氏も東大から広島に派遣された救援医師でした。純子さんの話では、「何人か派遣されましたが、学生時代ボート部で鍛えた体力を買われ、一番長く、確か4カ月位治療にあたった」そうです。翌年の昭和21年、縁あって純子さんとお見合い、22年に結婚、横浜で新婚生活を始めたそうです。
「広島の惨状や救護活動についても話してくれましたが、元気が取り柄の人でしたから、自分は大丈夫だと気にも留めていなかったようです」「田舎から来た私を気遣って、山梨に行こうとよく一緒に帰ってくれました」「あの頃は、医者でも放射能の怖さを知らなかったようです」「25年に、急に歯肉から血が出るようになって、それからは大変でした・・」「腫瘍にならない血液のガンは、外科手術が出来ない不治の病だと・・医者ですから、その辺は分かっていて・・あんなに強い人がこんなにもと云う苦しみ方でした」「直ぐ発病しなかっただけで、昭和27年には亡くなりましたから・・・原発事故は、大変心配です」岩井純子さんの結婚生活は、約5年。その半分は二次被爆したご主人の看病だった・・と。「今は、結婚を望まない女性が多いそうですが、私も結婚はもうコリゴリで、同じですね」