2011年3月10日木曜日

杉浦醫院四方山話―33 『永仁の壷―6』

「永仁の壷」の連載で、御大・加藤唐九郎氏について、失礼を承知で勝手を書いてきましたが、私は、作家・立原正秋に唐九郎との対談を著した『紫匂ひ』があることで、ある意味安心していました。それは、鋭い観察力と妥協しない審美眼で、「美」に憑かれた男とも云われ、作品のみならず生活のすみずみまで独自の美学を徹底していた立原に、私は、娘の命名をお願いするなど心酔し切ってきましたので、立原の厳しい眼力にかなった唐九郎は、やはり実力のある魅力的な男だったのだろう・・・と云った安心感でした。
しかし、白崎秀雄著『当世畸人伝』には、「唐九郎は著名な作家や評論家に、神秘めかした自分や自分の作品について書かせることにも長けていた。一つの例として、当時盛名をはせていた立原正秋に窯から出たばかりの茶碗をみせ、銘をつけてくれるよう頼む。立原は表が濃い紫で中がりんどうの色目から「紫匂ひ」といういかにも詩的な銘をつける。それは対談となって雑誌に載り、やがて『紫匂ひ』というタイトルの本にもなる。」と記されています。白崎秀雄は、唐九郎が、加納庄九郎から加藤庄九郎を経て、加藤唐九郎になる氏名変更の履歴も詳細に調べ、「唐九郎は、自らの出生の宿命から脱出したいという一念で、世に名を売ることに執心した。何代も続いた陶芸家系の出でもなく、東京美術学校卒業という学歴もないことで、名声のない陶工の宿命を身に沁みて感じ、心は様々にうっ屈していく。そのことが後の<永仁の壺事件>と無関係ではないであろう」と評しています。
この唐九郎評は、生前、虚実とりまぜた自作履歴で通した立原正秋と見事に重なります。立原の死後、後輩の高井有一が、著書「立原正秋」で、立原の「出自」について、先行資料と調査により、自筆年譜の「父母ともに日韓混血」の虚を、両親ともに「純粋な朝鮮人であった」と訂正しました。  高井は、出生をめぐり動揺する立原の言動を追いながら、その底に一貫して流れる願望を読み解き、古典への限りない追及と庭園や陶器から着物、料理に至るまでの立原の徹底したこだわりと造詣は、彼が「完璧な日本人として自らを作り上げるために必要な過程でもあった」と指摘しています。出自を逆手にとって、出自を工作しながら自己確立を図ることで、それを作品に結晶させた二人には、共通した「匂ひ」があって、惹き合わせたのでしょうか?杉浦家の「永仁の壷」が、予期せぬ「場」へ私を立たせてくれた訳ですが、これは、野中広務氏が暴いた政界から芸能、スポーツ界まで、日本社会に綿々と繋がる「現代的課題」です。逃げる気はありませんが、全くの力不足の私です。