2011年2月5日土曜日

杉浦醫院四方山話―25 『電球』

 杉浦醫院の照明器具は、昭和52年10月の閉院当時のもので、電球も付いていたままですから、約35年前の日本の医院の明るさと言っていいでしょう。「父は新しい物好きでした」と純子さんが言うように乗用車やピアノなどいち早く新しい物を取り入れていましたから、照明器具も応接室、診察室、玄関・・とそれぞれの機能と雰囲気に合わせ、当時としては重厚かつデザイン性にも優れた物が選ばれています。当然、「明るく」という思いもあったことでしょうが、建設当時は、蛍光灯が普及していなかったのか、全て電球です。しかし、昭和30年代には蛍光灯も広がりましたから、新しい物好きの三郎先生なら…と、思いますが、「好み・趣向」の問題として、変に白っぽい蛍光灯の明るさを三郎先生は拒否していたのでは…と、私は、勝手に思っていますが・・・
明るい部屋しか知らない現代の子どもたちは、調剤室や応接室に入ると「電気付いてるの?」といった表情で天井を見上げます。「この位暗い方が落ち着かない?」と聞くと「暗過ぎー」とか「ちょっと怖い感じ」と云った返事です。最近は、天井一面の蛍光灯を半透明のプラスチックガラスで隠した「光天井」を病院は、競って取り入れているようなので、子どもたちからすれば、病院は一番明るい所というイメージでしょうか。暗い感情でくる患者さんを明るい感情にしてあげる「ホスピタリティー」のなせる技でしょうか? 
町ホームページのトップでも「昭和町は生き生きと暮らせる明るい住みよい町です」と謳っているように「明るいこと」は「良いこと」で通っています。そう言えば、人の評価でもマイナス評価の代名詞として「ネクラ」なんていう言葉まで生まれ、イジメのターゲットにもなり、人間にも「明るさ」が要求されています。「暗さ」を排除することは、全てに好ましく、「発展・進歩」であり、それが「都市化だ!」という価値観が定着してきたように思います。まさしく、「蛍光灯文化が、日本を変えた」のでしょう。それにしても「蛍光灯」とは、どなたの命名でしょう。蛍には、真っ暗闇が必要不可欠な生存条件ですし、幻想的なほのかな光の点滅にも明るい街灯が迷惑至極なのに・・・
 
 アンデルセンの「マッチ売りの少女」が、少年時代好きだったネクラな私は「雪の積もった真っ暗な夜の町を、マッチを売って歩く女の子」のマッチは、照明と暖房の為のマッチと解していました。暗くなければ、もっとマッチが売れなくなって、彼女の手足はますます凍てついて・・・「暗い童話」好きが「暗い酒場」好きになっただけの恥ずかしい男の戯言ですから「蛍光等より電球」を三郎先生が主張し続けたのかどうかは、純子さんには、尋ねないことにしておきましょう。