2011年1月24日月曜日

杉浦醫院四方山話―21 『武田麟太郎―1』

 代表作「日本三文オペラ」で著名な小説家・武田麟太郎が、杉浦醫院の隣の正覚寺に滞在して、杉浦三郎先生の治療を受けていたことを、純子さんが教えてくれました。武田麟太郎は、庶民の生活、風俗の中に新しいリアリズムを追求した「市井事もの」とよばれる独自の作風を確立した作家です。同じ作風の池波正太郎や藤沢周平の人気が高い中、忘れられつつある作家ですが、武田麟太郎が甲府や昭和で疎開生活を送ったことは初耳でした。純子さんの話と武田麟太郎年譜から、彼の短い生涯と昭和村滞在期間を推定してみました。
「武田麟太郎年譜」によると≪昭和20年(1945)41歳 5月、東京麹町で戦災に遭い、甲府市伊勢町の夫人の実家遠光寺に疎開したが、甲府でも罹災。中巨摩郡昭和村へ移り、8月の敗戦を経て12月に昭和村の寄寓先から神奈川県片瀬へ移る≫ ≪昭和21年(1946)42歳 3月31日朝、片瀬の仮寓で肝硬変症のため死去≫とあります。
純子さんの話では「正覚寺先代住職の奥さんは、美人三姉妹の一人で、長姉は遠光寺の住職と次姉が武田麟太郎と結婚した」そうです。昭和20年5月に東京を焼き出された武田一家は、甲府の遠光寺に疎開しましたが、甲府空襲で遠光寺が焼かれたのは、7月7日の別名「七夕空襲」ですから、8日前後に正覚寺に再疎開したのでしょう。ですから、武田麟太郎は、8月15日の天皇の玉音放送は、正覚寺で聞いたことになります。暮れの12月に神奈川に戻っていることから、20年7月からの約半年、それも太平洋戦争終幕の困窮と混乱のピーク時に昭和村に居たことになります。 「体調が優れず、父が頻繁にお寺へ出向いて、診察していました。思想は「左」でしたが、静かな紳士だと父は言っていました」「寝付いていたのか姿を見た事はありませんでしたが、優秀な坊ちゃんが二人いたのを覚えています」「武田さんが居たことはこの辺の方も知らないと思います」と純子さん19歳の記憶は正確で、年譜とぴったり合致します。総合すると昭和村西条新田は、実質「武田麟太郎終焉の地」ともいえます。妻の姉妹を頼っての山梨での生活が、いかに作家・武田麟太郎に厳しいもので、体調にも・・・・織田作之助は、武田麟太郎を追悼して次の文章を残しています。
 「武田の死因は黄疸だったときく。黄疸は戦争病の一つだということだ。「ひとで」は武田さんの絶筆になってしまったが、この小説をよむと、麹町の家を焼いてからの武田さんの苦労が痛々しく判るのだ。不逞不逞しいが、泣き味噌の武田さんのすすり泣きがどこかに聴えるような小説であった。芯からの都会人であった武田さんが、自分で田舎者と言わねばならぬような一年の生活が、武田さんを殺してしまったのだ。戦争が武田さんを殺したのだ。=前後略=」と。